| ホーム | 収蔵資料検索 | ご利用案内 | 交通アクセス |

学芸ノート 【第13回】 山岡鉄舟筆《国泰寺奉納千双屏風》


 先日、富山県高岡市太田(西田・さいだ/国泰寺隣接地域)の林礼一氏より当館に標記の屏風が寄贈されました。非常に貴重かつ興味深い資料(作品)ですので、ご紹介したいと思います。

◆資料概要
 まずは資料概要を。
左隻右隻
 【画像】山岡鉄舟筆《漢詩屏風》(国泰寺千双屏風)〔クリックで拡大〕

  ・名  称  漢詩屏風(国泰寺千双屏風)
  ・作  者  山岡鉄舟(1836〜88)
  ・年  代  明治12〜14年(1879〜81)頃
  ・寸  法  (本紙 各)縦 136.7p ×横 49.7p、(各扇)169.5×56.9p、(各隻)173.5×347.8
  ・点  数  六曲一双(2隻)
  ・材質技法 紙本墨書




◆国泰寺奉納「千双屏風」とは
【画像】国泰寺・月泉庭と方丈(当館蔵写真絵葉書)
国泰寺・月泉庭と方丈(当館蔵写真絵葉書) “幕末三舟”の一人、かの山岡鉄舟(1)の漢詩屏風です。
 高岡市太田(谷内)にあり、高岡を代表する古刹の一つに数えられる臨済宗国泰寺派大本山・摩頂山国泰寺(2)の窮状を救うために鉄舟が大量に揮毫・奉納した、いわゆる「千双屏風」のうちと伝わるものです(以下、本屏風については、高田長紀氏の労作「山岡鉄舟千双屏風」(3)を大いに参考とさせていただきました)。
 西田に代々住まいする林家に数代前から伝わる屏風ですが、いつ、どのように入手したかは不明とのことです。

 鉄舟は明治11年(1878)の北陸行幸に随行した際、廃仏毀釈などで荒廃に苦しむ国泰寺の54世越叟義格(えっそうぎかく)(4)と会い、すぐに肝胆相照らす仲となり、「その後、山岡は国泰寺の復興に向けて一千二百双の屏風、掛け軸、額一万枚を揮毫し、加越能三国の有志に呼びかけるなど資金面で大いに支援した」といいます(5)
 年代は明治12年とするもの(6)や同年に200双、翌13年に1,000双とするもの(7)もあり判然としませんが(後述の関防印があるものが13年ともいいます)、各文献共に、同14年2月に東京本郷の鱗祥院にて屏風千双の落成供養会を執行したとあるのでその下限は分ります。

 いずれにしろ約2年間で1,200双(1双は12枚)のほか軸や額も数万点揮毫したと伝わるのです。信じがたいことですが、1日に数百枚以上は書かねばなりません。鉄舟はその著『書法に就いて』で、明治19年の1年間で約181,000余点書いたとあり、「一日二百枚以下ということは滅多にないことで、五百枚が普通で、時には千三百枚に及んだ日もあった」と述べており(8)、さらに「私は公務の余暇には、いつも剣、禅、書の三道の修行は一日も怠ったことはない」と同書にあるのです(9)。さすがは達人・鉄舟というべきです。
 鉄舟のこの壮挙は明治天皇にも伝わり、明治16年に宮内省と内務省からも支援を受けました。
 翌年没した越叟の跡を受け継いだ55世雪門玄松(西田幾多郎・鈴木大拙の師)(10)の奔走により、天皇殿の再建(同22年)、三門の改築、禅堂の再建(同26年)など徐々に復興を遂げていきました。




◆「千双屏風」の内容
 数ある屏風の内容は全て、中国唐代の禅僧・寒山(11)の『寒山詩』収録の五言律詩(5字×8句=40字)8首から、適宜選んで揮毫されています(即ち左隻・右隻の別は便宜的なものです)。その8首とは『寒山詩』の番号4、32、79、91、118、128、132、164番の漢詩です。
 今回寄贈された屏風の内容は、右隻の第1〜3扇は『寒山詩』の「32」、第4〜6扇は同「118」番、左隻は同じく「79」と「91」番の漢詩がそれぞれ書かれています((12)、番号は(13)を参照)。
関防(引首)印 剣・禅のみならず、書にも優れた、鉄舟らしい雄渾かつ洒脱な草書体です。
 漢詩の文字を楷書体に直した釈文(翻刻)と読みくだしは、こちらをクリックしてください。
 左右隻共、第1・4扇右上には鉄舟がこの「千双屏風」の為に作った関防(引首)印(朱文方印「屏風千双為需臨済宗/法灯派本山越中州国/泰寺五十四世越叟禅/師山岡鉄舟居士書」/右画像)、及び第3・6扇には落款「鉄舟居士書」と印章〔朱文方印「山岡鉄/太郎印」、白文方印「荷葉団々々/似鏡菱角/尖々々似錐」(14)〕がみられます。

 鉄舟は明治16年(1883)、東京谷中に自ら全生庵(国泰寺末寺)を建てた際、越叟を開基として迎え、また雪門にも熱心に参禅しました。さらに雪門は鉄舟の葬儀の導師となるなど、国泰寺と鉄舟の繋がりは深いものがあったといいます。
 本資料は優れた美術作品のみならず、高岡市を代表する古刹・国泰寺の歴史を語る上では外すことはできない貴重な歴史資料ともいえるものです。




【注】
(1) 山岡鉄舟
 やまおか てっしゅう
  1836−1888 幕末維新期の政治家。名は高歩,通称鉄太郎。旗本小野朝右衛門と磯の子として江戸に生まれた。剣を北辰一刀流千葉周作に,槍を刃心流山岡静山に学び,山岡家を継ぐ。高橋泥舟の義弟。安政3(1856)年講武所剣術世話心得,文久2(1862)年浪士組取締役を拝命。明治1(1868)年,精鋭隊頭となり徳川慶喜の警護に当たる。その直々の命により西郷隆盛を駿府に訪い,勝海舟との会談を周旋,徳川家救済と江戸開城に力を尽くした。彰義隊にも新政府への恭順を説いたが容れられなかった。維新後は静岡藩権大参事,伊万里県知事などを歴任。同5年侍従となり,同14年には宮内少輔に進む。53歳で病没,東京谷中に自ら創建した禅寺全生庵に眠る。剣客との名がある通り武骨ではあるが,将軍慶喜,明治天皇のいずれに対しても,意気に感じて誠実をもって応えた人である。勝,高橋と共に幕末三舟と称される。<著作>『鉄舟随筆』
(朝日日本歴史人物事典/平成27年11月28日アクセス)
(2) 国泰寺 こくたいじ
 高岡市太田にある臨済宗寺院。臨済宗国泰寺派の本山。山号は摩頂山。開創は1328年(嘉暦3)。開山は慈雲妙意で後醍醐天皇から清泉禅師の号をうけ,また光明天皇から慧日聖光国師と諡号を贈られる。慈雲妙意は信濃(現長野県)で生まれ,越後五智院で得度。関東壇林で修行し,北陸の曹洞禅に参ずる途中二上山に留まり,1296年(永仁4)に小竹弘源寺の地に草庵を構えたという。ここを訪れた孤峰覚明の教えにより,紀伊国(現和歌山県)由良興国寺の無本覚心を訪れて印記をうけ,その死後は孤峰の弟子となり,99年(正安1)に二上山に帰り東松寺を開く。1302年(乾元1)には国泰寺と改称し,伽藍を整備。寺伝では27年に後醍醐天皇の勅を奉じて寺を建立し,28年に護国摩頂巨山国泰万年禅寺の勅額と勅願所の綸旨を賜ったという。同寺蔵「清泉妙意禅師行録」には,同寺が39年(暦応2)に足利尊氏によって越中安国寺に充てられたともいわれるが疑問である。同じく法灯派の興化寺が足利政権と結び付くことで五山建仁寺系の出世寺となったのに対し,国泰寺は南朝系とのかかわりが深い孤峰の影響下にあったことや,修行を重視する林下的性格をもっていたため,室町期には世に現れることが少なかったようである。
 19世大梅妙奇のころ,神通川上流高原川沿いの現岐阜県上宝村一帯に国泰寺の教化が進められた。本郷本覚寺・長倉桂峰寺・赤桶寺・田頃家永昌寺・一重ケ根禅通寺・福地新福寺などである。永昌寺の場合,1435年(永享7)以前に大梅の弟子鳳宿麟芳が同寺の中興にあたる。南北朝〜室町前期には山間土豪層への教化活動は見られるものの,基盤の不安定さをのぞかせていた。戦国期以後には再興神保氏と歩調を合わせるように隆盛に向かい,1546年(天文15)には27世雪庭祝陽が後奈良天皇から綸旨(りんじ)をうけ,紫衣を勅許される。天正年間(1573〜92)には二上山山上から現在地に移り,加賀藩主前田氏の帰依が篤かった。だが飛騨の末寺群は金森氏の菩提所である高山の妙心寺派宗猷寺末に組み込まれ,国泰寺自体も1633年(寛永10)「諸宗末寺帳」段階で妙心寺末となる。この後,法灯派勅願寺院として越中および加賀の臨済宗寺院の多くを門末に加えた。1708年(宝永5)には5代将軍綱吉から法灯派総本山に認められる。
 38世別伝は正徳年間(1711〜16),加越能3国に寄進を募り,21年(享保6)法堂・祖堂・庫裡・僧坊などを新築。1876年(明治9)に臨済宗諸派が分立した際には相国寺派に属した。78年秋,明治天皇巡幸に従った山岡鉄舟は国泰寺を訪ね,54世越叟義格と協力して,明治維新以来困窮していた同寺の財政を助け,天皇殿の再建と三門の改築に努めた。越叟は明治政府教部省大教院長荻野独園(相国寺126世)の協力者でもあった。国泰寺においてはじめて白隠系の宗風を揚げた。55世雪門玄松は近代日本の代表的思想家である西田幾太(「多」の誤記)郎や鈴木大拙に多大の影響を与えた禅僧として著名(水上勉著『破鞋』)。1905年(明治38)には相国寺派から分離独立して臨済宗国泰寺派を称した。41年(昭和16)には一時他派と合同したが,第2次世界大戦後には元に戻り,52年には国泰寺派として宗教法人の認証を受けて独立。現在末寺35カ寺を擁する。開山忌は6月2,3日。法灯派本山でもあるため妙音会と称して虚無僧が数十人集まり,尺八を吹奏する。
(「富山大百科事典 電子版」/平成27年11月28日アクセス)
(3) 高田長紀「山岡鉄舟千双屏風」(『氷見春秋 17号』昭和63年4月25日発行)
(4) 越叟義格 えっそうぎかく
  1837−1884 幕末−明治時代の僧。
 天保8年5月3日生まれ。臨済宗。文久3年京都相国寺の越渓守謙に師事し、その法をつぐ。明治7年国泰寺(富山県高岡市)の住持となり、山岡鉄舟の援助で同寺を法灯派の本山とする。東京谷中に全生庵をひらいた。明治17年6月18日死去。48歳。筑前(福岡県)出身。俗姓は松尾。
(デジタル版 日本人名大辞典+Plus/平成27年11月28日アクセス)
(5) 劔 月峰『櫻散りぬ ―ある小学唱歌教師一族の近代史』文芸社、2007年
(6) HP「山岡鉄舟研究会」内「鉄舟年譜」(平成27年10月28日アクセス)
(7) 注(3)高田氏論文p49
(8) 注(3)高田氏論文p49
(9) 注(3)高田氏論文p52
(10) 雪門玄松 せつもんげんしょう
  1850−1915 明治・大正時代の僧。
 和歌山市の豪商の跡取りだったが、時代の流れと当主の遊興が過ぎて家業が傾き、後を次男に任せ出家。その寺も台風で壊れ、後に京都相国寺・荻野独園(大教院長、禅宗初代管長)に師事し印可を得る。その後、実家の支援で中国に3年遊学。帰国後の明治16年、国泰寺55世管長に就任。山岡鉄舟の軸を担いで勧募に歩き、荒廃した伽藍の修復に奔走した。同21年の鉄舟没時には本葬儀の導師として儀式を主宰。また若き日の西田幾多郎や鈴木大拙が雪門に参禅した。明治26年、禅堂再建を落成させると、突如国泰寺を退山し、草庵に引き籠もり在家禅を唱導。その後実家の鉱山経営のために還俗するも、慣れない事業経営に失敗。再度禅僧に戻り、若狭の曹洞宗の寺を寓居として、村おこしを手伝うなど乞食僧として活動するも、腹膜炎を患い66歳で没した。その生涯は小説、水上勉『破鞋(はあい) −雪門玄松の生涯』(岩波書店、1986年)に克明に描かれた。(注(3)高田文献、備後國分寺ブログ「住職のひとりごと」内、2007年1月6日記事)
(11) 寒山 かんざん
  生没年未詳。中国、唐代の僧。
 拾得とともに天台山国清寺を訪れ、豊干に師事。三者を三隠と称した。文殊菩薩の化身とされる。禅画の「寒山拾得図」や「四睡図」に描かれる。詩集「寒山詩」3巻。(デジタル大辞泉/平成27年11月28日アクセス)
(12) 注(3)高田氏論文p53-54
(13) HP「花園大学国際禅学研究所」内「禅籍データベース/寒山詩」/平成27年12月9日アクセス)
(14) 「荷葉(かよう)団々として団(まど)かなること鏡に似たり、菱角(りょうかく)尖々(せんせん)として尖(するど)きこと錐に似たり」。
 禅語。蓮の葉はまるまるとして鏡のように丸い。菱の葉は鋭くとがっていて、錐のようにとがっている。まるい蓮の葉も、鋭い菱の葉も、どちらも同じ池に浮いている。個性の違うもの同士でも、同じ池に住むという「縁」でつながっている、という意。(HP「茶席の禅語選」内「荷葉團團團似鏡」/平成27年12月4日アクセス)


(主査学芸員 仁ヶ竹 亮介)





このホームページ内の内容、画像の二次利用は固くお断りします。

原本作成日:2015年12月23日