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学芸ノート 【第5回】 高岡の町絵師・堀川敬周の俳諧活動


堀川敬周筆「人物十二ヶ月図屏風(六曲一双)」より「一月」  当館では平成15年7月12日から9月7日にかけて、企画展「高岡の絵師−堀川敬周とその弟子達−」を開催しました。高岡初の本格的な町絵師といわれる堀川敬周(けいしゅう)(1789頃〜1858)をテーマとした展示は約15年ぶりでした。経歴に謎が多い敬周ですが、その調査過程で、姓は「源」であり、字(あざな)(もしくは氏)が「公載」といい、また「長汀」とも称していたことなどがわかりました。しかし、ここでは画人敬周が俳人としても活躍していた側面に焦点を当てて紹介していきたいと思います。
画像〔堀川敬周筆「人物十二ヶ月図屏風(六曲一双)」より「一月」/桜井梅室賛/当館蔵〕

 まず、氷見の町役人で俳人の田中屋権右衛門の膨大かつ詳細な日記『応響雑記(おうきょうざっき)』からみてみます。同書によると、伊勢出身で敬周と同じ四条派の画人で、俳人でもある十丈園(西村)十丈(?〜1830)は、文政10年(1827)5月28日から2ヶ月間氷見に、7月28日には高岡に来遊しています。また同12〜13年にも高岡・富山方面に来遊し、地元俳人と交遊しています。
 『応響雑記』同12年の記には「七月十八日(略)夜ニ入。高岡敬周方より、十丈子の紙面到来に付、開封仕候所(つかまつりそうろうところ)、富山より招かれ、出杖仕候」とあります。さらに文政12年(1829)以後の成立と思われる十丈園編の『十丈園筆記』には巻一・二ともに敬周の句が入集しているように、盛んに交遊していた様がうかがえます。
 十丈園といえば、その俳諧の師は金沢出身で“天保三大家”の1人、桜井梅室(1769〜1852)ですが、敬周はこの梅室ともつながりがあります。「人物十二ヶ月の図屏風」(当館蔵)や「亀と霊芝」(個人蔵)などは敬周の絵と梅室の句の合作であり、親交の程が察せられます。




〔俳諧一枚摺(個人蔵)の敬周筆「馬図」〕クリックで挿絵アップ
俳諧一枚摺(個人蔵)
 天保4年(1833)正月に越中魚津で発行された「俳諧一枚刷(ずり)」(個人蔵)には、敬周筆の馬の挿絵と敬周自身の句「有礒より匂ひ初めてや梅の花」が掲載されています。俳諧一枚刷(摺)とは、1枚の用紙に印刷された俳諧関係の摺物のことで、歳旦や各種の披露や祝儀の際に、俳人間で配られ、絵が加えられていることが多いものです。宝永から享保期(1704〜36)にかけて普及し、以降、大衆化が著しくなり、昭和初期まで作られました。
 この資料は敬周自身を含む26人の俳人たちが詠んだ句に、敬周の挿絵が掲載されているものであり、俳人としての敬周の活躍を示すものといえます。東畝・史猷・卜之・宇玄など魚津の俳人を中心としていますが、なかには越後の俳人で『北越雪譜』の著者・鈴木牧之(ぼくし)(1770-1842)や、桜井梅室、高岡の俳人の真葛坊などの句もみられます。ちなみに真葛坊が天保5年(1834)に編んだ『こしなか集』は当時の越中全域の多数の俳人(故人も含む)を網羅しているが、その中に敬周の句と挿絵(「松図」)も掲載されています。



〔「浜千鳥」部分/左が与謝蕪村書簡(寺村百池宛)、右が桜井梅室書簡(敬周宛)〕
与謝蕪村書簡(寺村百池宛)与謝蕪村書簡(寺村百池宛) 桜井梅室書簡(敬周宛)

 俳諧は江戸時代の文化人の嗜みの一つとはいえ、敬周が俳諧に(猛烈に?)傾倒していたことを示す資料がある。「浜千鳥」と題された2メートルを越す長大な巻物です(個人蔵)。これは江戸後期の陸奥から肥後にまたがる、全国の有名な俳人たちの書簡や俳諧45点を、敬周自ら編集したものです。「江戸 方圓梅室」や「京都 夜半亭蕪村」のように一人ずつの居所と名前を丁寧に記した付箋がその書簡の前に貼られており、敬周の俳諧に対する並々ならぬ思い入れが察せられます。

 敬周宛の書簡は5点しか確認できませんが、先述の十丈園宛のものが14点と最も多く、敬周と特に親しかったことを示しています。他の有名俳人の書簡は、敬周が京から高岡へ帰郷する時に俳諧仲間から餞別として譲り受けたものと伝わっています。なかには画家としても有名な俳人・与謝蕪村(1716-83)をはじめ、先の梅室のほか天保三大家の田川鳳朗(ほうろう)(1742-1845)・成田蒼□(虫ヘンに礼のツクリ,そうきゅう)(1761-1842)や、京都の寺村百池(ひゃくち)・寺島杜蓼(とりょう)、江戸の大島蓼太(りょうた)・田喜庵護物(ごぶつ)、大坂の菅沼奇淵、陸奥の一具庵一具・遠藤曰人(あつじん)、金沢の高桑闌更(らんこう)、津幡の河合見風(けんぷう)、越中の丿□(へつほつ)庵麻父(まふ)・簗瀬千崖(せんがい)など、各地方を代表する錚々たる俳人の名がみられます。

 なかでも最初に表装されている、桜井梅室より敬周宛の書簡には、「俳諧も随分御出精なさるべく候(そうろう)、画道の助けにもあいなるべくと存じ候」(俳諧に大いに精を出すことは、絵画の助けにもなるでしょう)とあります。師弟関係にあると思われる敬周は梅室の間には、俳諧のみならず絵画にもそのアドバイスが及ぶような濃密な関係があったことがわかります。

 以上に紹介したほかにも、敬周は他の句集に句が選ばれたり、挿絵を提供したりするなどしています。敬周のこれらの俳諧活動は、一地方の文芸の側面を推察するヒントを我々に与えてくれているといえます。

※参考文献:蔵巨水『越中俳諧年譜史』(桂書房,1992年)

(学芸員 仁ヶ竹亮介)






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原本作成日:2004年10月26日;更新日:2015年3月28日