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学芸ノート 【第10回】 海軍報国号献納飛行機関係資料・追記(陸軍愛国号について)



2012年2月、東京都多摩市在住の井波隆氏より、荒野権四郎の海軍機献納と同じ時期に、高岡市と富山市の別な個人から、陸軍機(愛国号)献納もあったことを伝える記事の複写をご提供いただきました。

雑誌『富山県人』昭和19年(1944)3月号(p.45)には、高岡市の富山県染織株式会社社長・井波清治郎と、富山市の売薬業・志浦常次郎が、それぞれ8万円の陸軍機を献納したことを、荒野権四郎の海軍機の献納とあわせて報じています。『北日本新聞』昭和19年2月11日(紀元節、現在の建国記念の日)には、「陸海軍へ献納の翼/高岡の井波、荒野両氏」の見出しがあり、記事中には二人の談話もあります。井波清治郎の談話の一部を以下に写します。

「国家の保護のもとに多年営業さして戴いた会社最後の御奉公と、貧者の一灯ではありますが献納さして戴くことにしました、(中略)昨年の九月二十二日東條首相の国内態勢強化の放送を聞き、捺染業は苛烈を極める戦闘に寄与する事業でないと感じましたので、即日富山県染織株式会社を解散するに決し、小又商工課長の諒解を得て、工場の全体を不二越工場に使つて戴くことにし、十二月中旬捺染事業を打ちきりました。それと同時に私には(中略)三男があるので一家総進軍だと、長男(中略)を昨年学徒部隊とし、二男(中略)三男(中略)は相次いで入営することになるので喜んでゐます。献納飛行機は紀元節に手続きを了し、富山県染織株式会社の通称名『富染』を冠して富染号と命名して戴きたいと思つてゐます」(旧字を新字に改め、句読点を補いました)

富山県染織株式会社は、明治30年代以後の高岡市で盛んに行われていた機械捺染(なっせん)の代表的な企業の一つとして、『高岡市史』下巻(1969年、p.646)にも記されている会社です。井波隆氏よりご提供いただいた同社の法人登記簿謄本によれば、その設立は昭和11年(1936)9月19日、代表取締役・井波清治郎、取締役・井波義雄、監査役・井波四郎(隆氏の父君)の三兄弟が経営に当たっていました。上の談話では、同社の廃業は時局に鑑みてのことと語られていますが、物資の流通が厳しく制限される統制経済下では、捺染のような業種の存続は困難だったことでしょう。それは事実上の軍需産業への徴用であり、経営者である井波清治郎の立場としては、従業員の雇用確保の意味もあったと思われます。と言うのも、井波隆氏は、廃業後の同社が風船爆弾の製造工場に転用されたという話を聞いておられるそうなのです。風船爆弾の工場の働き手は、捺染工場と同じく多くが女性でした。

昭和13年(1938)に制定された国家総動員法を法的根拠とした「国家総動員体制」とは、一般国民の財産や生命までも戦争につぎこむためのシステムであったことは言うまでもありません。その一環として、各地で企業の統廃合が断行されました。たとえば、高岡の酒造業は戸別の自家醸造を廃業、会社組織に統合されることになり(前掲『北日本新聞』記事)、荒野権四郎の「日本晴」も廃業、醸造場の敷地800坪を県の斡旋で軍需企業に売却し、その手取金が「日本晴号」の献納にあてられたのでした(前掲『富山県人』記事)。荒野権四郎の献納機は、言わば総動員体制が「廃業補償」から容赦なく差し引いた「手数料」だったようにも思われます。

軍用機献納の背景には、捺染業や酒造業のような企業が、時局の泥沼化とともに陥った過酷な状況もありました。総動員体制に迫られての廃業、相次ぐ子息の出征、そんな中で井波清治郎が行った多額の寄付は、従業員の生活に責任を負う経営者としての苦渋の決断と切り離せないものであり、また三人の息子の無事を願う父としての軍当局への哀訴でさえあったかもしれません。そう思えば、高岡を代表する経営者であった井波清治郎の「富染号」や、代々の銘酒を守ってきた荒野権四郎の「日本晴号」という献納機の命名には、痛切な印象も覚えます。

貴重なご教示をいただいた井波隆氏にお礼を申し上げます。


※なお、WEBサイト「陸軍愛国号献納機調査報告」には、「愛国 3088」として「富染号」に関する記載があり、その絵葉書の画像も掲載されています。

※昭和30年(1955)に「日本晴」は復活、現在は日本晴酒造合資会社として、「日本晴」を始めとする地酒を提供しておられます。

(学芸員・藤井素彦)





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原本作成日:2012年3月31日;更新日:2015年3月28日