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高岡城関係資料 前田利長書状(松平伯耆康定・神尾図書之直宛)



〔翻刻(ほんこく)〕
「Q其心へ候て/R日げんのじぶん/@わさと申入候/S申こし候へく候/A仍高おかへわた/Bましの義申/Cつかい候所ニ廿八日/Dのころハばん所/Eたかへやへいなとも/F出来いたし候/Gましき由/H此ぶんニ申こし候/I間らい月四五日<折返>Jごろまてのべ/K可申候と存候間/Lそこもと本丸の/Mのふしんのてハ/N山城出羽なとへ/Oそうたん候てもつ/Pとも候/かしく/八月八日」(丸数字は読む順番。「/」は改行)
(端裏ウワ書)「(切封)はうき/つしよ    はひ」


〔読み下し〕
「わざと申し入れ候。よって高岡へ移徒(わたまし=入城)の儀、申し使い候(そうろう)ところに、(八月)二十八日の頃は番所・鷹部屋、塀なども出来(しゅったい=完成)いたし候まじき由、この分に申し越し候間(あいだ)、来月四・五日頃まで延べ申すべく候と存じ候間、そこもと本丸の野普請(のぶしん=土木工事)のては、山城・出羽などへ相談候て、もっとも(に)候。かしく。八月八日」
(端裏ウワ書)「(切封)伯耆(松平康定)/図書(神尾之直)    羽肥(前田利長)」


 【年代】慶長14年(1609)8月8日
 【法量】
 【所蔵】前田育徳会(尊経閣文庫)



 この文書は慶長14年(1609)8月8日に利長から、側近の松平伯耆と神尾図書に宛てて出されたものである。
 その意は「高岡新城への入城の件に関しては、使いを出して申し渡した通り、8月28日頃に予定していたが、普請が遅れており、番所・鷹部屋・塀などが完成しないとのことを申し受けた。では止むを得ないので、来月の4・5日頃まで日延べをすることにした。
 その方たち(松平と神尾)は、本丸の土木工事については、金沢の家老である山城(横山長知)・出羽(篠原一孝)と相談しながらすべきである。そのように心得て、日限の時期を報告せよ」というもの。
 魚津にいる利長はこの3日前の8月5日付の書状で、高岡入城の予定日を8月25〜29日頃に予定し、細かな準備を申し付けている。その命令を受けて現地奉行の神尾之直と松平康定は、「そんなの間に合うはずがない!」とさぞかし驚き、すぐさま日延べの願いを出したのであろう。本史料はその返書とみられる。
 工事の遅れは致し方ないにしても、性急な利長にしては苦渋の決断であったろう、9月の4・5日頃までの日延べを認めている(しかし更に延期し、結局9月13日にまでなっている)。
 そして、横山山城守長知(ながちか.1568-1646)と篠原出羽守一孝と相談せよとも命じている。いずれも加賀藩の重鎮で、特に篠原一孝(1561-1616)は金沢城河北門の石垣普請も担当した普請のエキスパートである。
 また鷹部屋も建築中であることは、当時の大名たちに流行していた鷹狩りを利長も愛好していたことを示している。






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日