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高岡城関係資料 前田利長書状(神尾図書之直宛)



〔翻刻(ほんこく)〕
(端裏ウワ書)「(切封)つしよ  ひ」
「Kかつらまきによくこし候/Lよし申度候/@二ノ丸どいわきに/Aもん壱つ同二ノ丸両の/Bすミにやくら二つ申/Cつけ度候これハはや/Dはし本宗右衛門うけ/Eたまハり候て内々こし候うへ/F申候由候其ほかハさくし/G所これなき由申度候/Hまたかきたての物さかな/Iあけ候いつれもぬしへとらせ/J申候/Mかしく/N九月十四日」
(丸数字は読む順番。「/」は改行)

〔読み下し〕
「図書(神尾之直)   ひ(利長の官職名、肥前守のヒ)」
「二の丸土居脇に、門一つ、同二の丸両の隅に櫓二つ申し付けたく候。これははや、橋本宗右衛門承り候て、内々越し候うえ、申し候由候。その他は作事所これ無き由申したく候。またかきたてのもの魚あげ候いづれもぬしへ取らせ申し候。
 葛巻(隼人)に良く越し候由申したく候。  かしく。
  九月十四日」


 【年代】慶長14年(1609)9月14日
 【法量】タテ36.8p×ヨコ54.4p
 【所蔵】前田育徳会(尊経閣文庫)



 この文書は慶長14年(1609)9月14日、つまり利長の高岡入城翌日の書状で、利長から神尾図書之直に宛てられている。神尾之直は若い頃から利長に近侍してきた老臣で、高岡築城の際は総奉行に任命されていた人物で、当時9000石の大身である。この史料の他にも細々とした利長からの書状は大抵この「つしよ」宛になっており、利長の右腕として活躍していたことをうかがわせる。

 内容は「(高岡城の)二の丸の土居脇に門を一つと、同じく二の丸に隅櫓を二つ増築したい。それは既に(御大工の)橋本宗右衛門(300石)に申し付け、その了承を取ってあるので、宗右衛門が内々に高岡に来たうえで申し付けるつもりである。そのほかの作事(建築)場所は無いことも申し付けたい。また、魚が献上されたのでそれらは神尾之直に与える。なお、葛巻(隼人)〔寛永4年(1627)当時は1750石〕には高岡へ良く来たと申し伝えたい」との旨を申し渡したものである。
 まず、最も注目される点は、二の丸に門や櫓の増築を命じていることであろう。このことは高岡城が未完成であったことを示すと同時に、この増築は既に命令済みということなので、利長が如何に高岡入城を急ぎ、更にこの城を軍事的に重視していたことをもうかがい知ることができる。入城直前まで魚津城で高岡新城の図面とにらめっこしていたであろう利長の姿が連想されるようである。そして実際に高岡城を見た利長が、その弱点を見抜き、増築の必要性を改めて確認したのではなかろうか。
 この二の丸の門、及び二つの隅櫓は、恐らく廃城時に壊されたのであろう、残念ながら現存はしていない。



・「切封(きりふう)」…文書の右端を下から上へ四分の一程まで数oの幅で切り、文書を畳んだ後に、その切った部分をヒモの代わりにして、その文書をくくり、結び目に封じ目(「〆」)を記す方法。

・「ウワ(上)書」…文書の包紙や文箱などの表面に、宛先・差出などを書くこと。またその書かれた文字のこと。






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日