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高岡城関係資料 高岡古御城之図


高岡古御城之図 高岡古御城之図 裏書

 【年代】文政4年(1821)
 【法量】タテ115.0p×ヨコ83.0p
 【材質】紙本彩色
 【所蔵】金沢市立玉川図書館 近世史料館(加越能文庫)



 本図の由来については、裏書に詳しいのでまずその全文をあげる。
「高岡古御城之図/文政四年高岡火災之節御城之御塩蔵等/少し焼失に付為見分相添□図取いたし/候由之津田宇兵衛より内々借り写し置/文政四年冬写之」
 即ち、「文政4年(1821)の高岡大火の際に、高岡城址の塩蔵などが少し類焼したので、検証した絵図を(見分役人の)津田宇兵衛より内々に借りて、同年に写しておいた」ということである。

 この図は土居が記してあるが、小川図(No.1「高岡城之図」上段)のものと比較するとは鍛冶丸や本丸の「食い違い」が見られない。また小堀提出図(No.1「高岡城之図」中段)ほど細かく間数は書かれていないが、建築物などは詳細に記してあるので、やや小堀提出図に近い系統のものといえようか。
 また「御城外(小竹藪)」の横の貼り紙が気になるが、これについては不明である。訂正するつもりで貼ったのであろうか。

 同年6月24日の午後1時過ぎ、高岡の上川原町(檜物屋町説もある)の立野屋善四郎・安川屋多(太)兵衛両家の間から出火した火は、折悪しく吹き荒れていた烈風に煽られ、たちまち未曾有の大火となった。全焼29ヶ町・半焼8ヶ町の計37ヶ町(当時の高岡の町数56ヶ町)、2千数百戸を焼き、死者は検視を受けた者だけで34人(あるいは38人)、実数は60人程に上ったという。罹災した建築物は寺院18ヶ寺、町会所(高岡町の行政府)、2棟の御貸家(町奉行官舎)、時鐘堂などをはじめ、この「古御城」内でもこの裏書によると「少し焼失」とあるが、被害は甚大であった。まず古御城御門。これは恐らく本丸入口に建っていたものであろう。そして御収納米蔵2棟とも、そして御詰塩蔵(被害は塩1万俵)という惨憺たるものであったという。
 この火災後には略奪が横行し治安が悪化したともいわれるが、加賀藩の対応は見事なものであった。まず時の高岡町奉行は2人とも不在であったが、そのうちの1人、半田左門は取る物も取りあえず、金沢から急行し、的確な指示を出した。もう1人の奉行の大橋作之進は大火の十日前に辞令を受けたばかりであったが、2日後には高岡に到着した。そして、次々と金沢から見分役人が来高する。裏書にある津田宇兵衛は御作事上奉行であり、7月5日に高岡に来ている。そして藩主の名代として加賀藩内の最高権力を持つ8つの名家「八家(はっか)」のうちの村井家8世又兵衛長世が7月19日に80人の供を連れてやって来て、緊急手当ての御貸米の貸出など適確な事後処理をしている。

 これらの全焼した蔵はその後に再建されて、明治初年の射水郡議事堂を建設するまであったという(増山安太郎著『高岡古城志』)。






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日