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高岡城関係資料 高岡城并(ならびに)瑞龍寺図


高岡城并瑞龍寺図(部分) 高岡城并瑞龍寺図

 【年代】明治時代〔原本は享和元年(1801)以前編集〕
 【法量】タテ133.9p×ヨコ81.5p
 【材質】紙本墨画・墨書
 【所蔵】金沢市立玉川図書館 近世史料館(加越能文庫)



 加賀藩の誇る大郷土史家・富田景周(とだかげちか)著『高岡山瑞龍閣記』(『瑞龍閣記』と略される)の附属図である。
 瑞龍寺図と高岡古城図3図が1図になっており、No.1「高岡城之図」の原図と考えられる。  その理由はNo.1「高岡城之図」にも述べたので参照して頂きたい。
 『高岡史料』(昭和47年復刻版)下巻附属図「高岡御旅屋の図」の解説に「(富田)景周高岡城の図に関し記して曰く『有澤永貞小川安村等ノ図其外ニモ密図アリ景周曾(かつ)テ享和辛酉之春是等ヲ一集シテ縮図とナシ瑞龍閣記ニ併附ス』とあるように、景周が享和元年(1801)以前にこの3種の高岡城図を縮写して集め、『瑞龍閣記』に附属させたものである。
 金沢市立玉川図書館に所蔵されている『瑞龍閣記』及び、本資料と「高岡街并客館図」はいずれも紺地の厚手の表紙・裏表紙が付いていること、紙質が新しいことから、本資料は明治時代に原本から写されたものと思われる。
 ちなみに「高岡街并客館図」の「客館」とは藩主などが休憩・宿泊する藩営の旅館「御旅屋(おたや)」のことである。しかしその機能は正徳元年(1711)に高岡町役人の筆頭・天野屋伝兵衛の屋敷が「御本陣」に指定されて以来失われた。

 郷土史の名著、『高岡山瑞龍閣記(こうこうざんずいりゅうかっき)』は寛政9年(1797)に、前田利長の菩提寺である瑞龍寺の16世・霊源活湛(れいげんかったん)からの求めに応じて執筆し、同11年(1799)に納めたものである。内容は同寺の沿革や什物、伝説などについて漢文で、流暢な草書体により書かれている。景周はこの2年後の享和元年に、再び活湛の依頼に応えて『瑞龍閣記』を著しており、今度は註を加え、厳格な楷書体で書かれている。



【富田 景周】とだ かげちか
  延享3年(1746)生〜文政11年(1828)没
 郷土史家、加賀藩士。通称縫殿・権佐、号は痴龍、エイ(テヘンに櫻のツクリ)寧斎、楽地堂、暮松楼。
 先祖は本国を越前とする富田治部左衛門(5千石)の子、六左衛門重政(1万3000石)という。
 宝暦12年(1762)宗家富田修和の養子となりその統を継いで禄2,500石を受け、天徳院請取火消、小松城番、御算用場奉行を歴任したが、天明6年(1786)事に座して職を免ぜられた。のち許されて出銀奉行となったが、文化3年(1806)辞した。
 経学詩文を乾祐直(加賀藩家老横山隆達に仕えた儒学者)に学び、博覧強記、ことに国史に精通した。壮年の時、郷国に益する書を作る志を立て、公務の余暇に藩の地理、歴史を研鑽して著書60種を超えた。特に『越登賀三州志』は越中、能登、加賀の地理・歴史を詳述したもので、数十年を費やした大著である。文政2年(1819)完成し、藩主、将軍に奉った。『燕台(えんたい)風雅』は藩初から寛政に至るまでの学風及び学者文人の伝と漢詩文の佳作を集めたもので、その他考証、教訓に関する著書が多い。
 『金藩諸士禄籍』『金藩闔臣図譜(きんぱんこうしんずふ)』『越中万葉考』『下学老談』『楢葉越枝折』など郷土史の先覚であり、後の学者を益すること多大である。子の景煥(かげあき)も父の職を継ぎ、詩文をよくした。

《参考文献:『石川県大百科事典』(北國新聞社出版局編集,同社発行,1993)、『石川県姓氏歴史人物大辞典』(竹内理三著,角川書店発行,1998)など》






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日