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高岡城関係資料 高岡古城図


高岡古城図

 【年代】江戸後期
 【法量】タテ108.5p×ヨコ65.8p
 【材質】紙本墨書
 【所蔵】高岡市立中央図書館



 本図には表題・年代・作者など何も記されていないが、資料No.1「高岡城之図」(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵)の中段図と極めて類似している。この中段図は天保13年(1842)5月25日から嘉永6年(1853)3月15日まで高岡町奉行を務めた、小堀金五右衛門政布が提出した図であり、数種ある高岡古城図の内で最も正確なものといわれている。
 本図はその「小堀提出図」が写されたものなのであろうか。
 城址内の建築物について詳しく記されている。
 まず本丸には4間(約7.2m)×24間(約43.4m)の御収納米蔵が2棟、4間×50間(約90.9m)の御詰塩蔵が1棟、9尺(約2.7m)×2間(約3.6m)の番所が1棟、2間×4間の門があり、その他に本図には名称や大きさは書かれていないが「御郡方作食米蔵」もあったという。
 御収納米とは「御詰米」ともいい、領民から徴集した年貢米の内、藩士の手に渡る「給人米」と違い、藩主に納める分で地方町人に売り出したり、大坂や江戸へ廻漕して売却した。
 御詰塩蔵に入れられた塩は、加賀藩の専売品目一つ。長さ50間の長屋であったという。金沢城にもある“五十間長屋”が高岡城址にも建っていたのである。
 以上3棟の蔵は柿(こけら=木片)葺きであったという。
 「作食米(さくじきまい)」とは農民が秋の収穫期まで食いつなぐための食料で、藩は村々の石高に応じて春に貸付けて秋に返納させ、年貢米とは区別して作食蔵に納めた。
 二の丸にはそれぞれ2間×4.5間(約8.2m)の「番人御貸家」が2棟建っていたとある。御貸家とは官舎のことで、『高岡開闢第一番』によると「古御城(高岡町民は親しみを込めて城址をフルオシロと呼んでいた)御番人 鷲田太兵衛/矢部新右衛門」とあり、番人には1人10俵ずつ扶持米が与えられていたという。
 二の丸入り口には「やらい(矢来)門」があるが、大きさは不明。矢来とは竹や丸太を粗く組んで作った臨時の囲いのことである。
 そして明き丸には2.5間(約4.5m)×3.5間(約6.4m)の鉄砲薬(硝煙)の土蔵があり、三の丸の搦手口にも矢来門(大きさ不明)があったという。
 これらの建築物の一部は『金城深秘録』や『微妙公御夜話異本』によると廃城時に取り壊されずに遺された可能性が考えられる。
 文政4年(1821)6月24日、川原町からの出火による大火で、城址も類焼した。特に本丸の蔵はほぼ全焼したという。その後、再建されたが明治初年に射水郡会議事堂を建てる時に取り壊された。
 本図にはこの他にも各曲輪や堀の詳細な間数が記されており、高岡城址のことが細かいところまでよく分かる、大変貴重な絵図である。






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日