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高山右近銅像(高岡城跡大手口)


高山右近銅像

 高岡城跡大手口に建つ高山右近銅像。原型は滋賀県の彫刻家・西森方昭作。この像は5体あり、大阪府・高槻市民会館前(1972年)とフィリピン・マニラ湾公園(1977年)に次いで昭和62年(1987年)に造立された(他に高山右近記念公園(1999年/石川県羽咋郡志賀町末吉)と2007年造立の香川県小豆島のカトリック小豆島教会にある)。

 高山右近(1552-1615)は安土桃山から江戸初期にかけての代表的なキリシタン大名である。
 摂津国三島郡高山庄(大阪市豊能郡豊能町高山)出身。名は重友、また長房、友祥ともいい、右近は通称である。6歳で父高山飛騨守友照(ダリヨ)の大和国宇多郡(奈良県宇陀市)沢城に移る。永禄7年(1564)にキリシタンとなる。洗礼名はジュスト(ユスト)。摂津国(大阪府)高槻城主となり織田信長に仕え、豊臣秀吉により明石に移封される。また利休七哲のひとりで南坊・等伯と号する茶人でもあり文武両道に優れた。
 秀吉のバテレン追放令を拒否して追放されたが、前田利家に高禄で迎えられた。小田原北条攻めや、大聖寺城攻めなどでは前田利長の参謀的な存在として活躍。また築城の名手として金沢城(内総構)の修築や高岡城の縄張りを行なったとされる(近年の研究では否定的)など、軍事・政治両面で利長を支えた。
 慶長19年(1614)正月に徳川幕府の禁教令により国外追放となり、元和元年(1615)マニラで没した。信仰に殉じた右近の名は遥かヨーロッパまで届いていたという。
 2016(平成28)年1月21日、バチカン(ローマ法王庁)のローマ法王は右近を最高の崇敬対象となる「聖人」に次ぐ「福者」に認定した。翌年2月7日、大阪城ホールにおいて、右近の「列福式」が行われた。






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原本作成日:2002年7月1日;更新日:2021年3月28日