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学芸ノート 【第11回】 加賀藩主の数え方


◆はじめに

 当地をはじめ、全国的にも加賀藩の初代藩主は前田利家、2代は前田利長とするのが定説となっています。しかし最近、インターネットを中心に、前田利家を「藩祖」、利長を「初代藩主」とする記述が散見されるようになりました(1)。なぜこのような説が生まれたのか、本稿では改めて考えてみたいと思います。
 そもそも「藩」とは何か、というところから整理してみましょう。現在、どうやら次の二つの意味、認識がありそうです。

@「近世大名領の総称、また明治新政府成立当初の地方行政区画の一つ。「藩」という漢字はもと「まがき」(中略)、「さかい」、「まもり」を意味し、転じて中国周代の封建制度で、天子が諸国に封じて自己を輔翼せしめた諸侯を指して藩輔・藩屏・藩翰・藩鎮などと称した。その先例により、江戸時代、江戸幕府に服属していた大名を「諸侯」、その領地もしくは支配組織を「藩」といい、幕府と大名の支配の仕組を「封建」と呼ぶならわしが、儒者の間から起った。(中略)江戸幕府が「藩」の公称を採用したことは一度もなく、(中略)明治維新以後、(中略)「藩」の呼称が普及し」た(2)(強調部筆者、以下同)

 儒者とは、新井白石(1657〜1725)、荻生徂徠(1666〜1728)ら(3)であり、@の意味や用法は、江戸中期以降、彼らが「ならわし」として、いわば“発明”した「歴史(学)用語」であると捉えられます(よって藩成立期は当然、「藩主」という概念はありません)。

A「大名の支配機構に見る中央政権との関わり、家政機関と行財政機関の分離、家臣団統制と領民支配の徹底など、近世大名領の藩制の原型はすでに織豊大名領に存在した(4)

 また深谷克己氏は、「近世の藩は大名領ということであって、藩とは言いたくないという研究者がいます。この藩という呼び方は、幕藩関係つまり大名の、将軍に対する従属性という意味だけのものでしょうか。私は、藩という呼び方は、大名の自分仕置、その領域に入る社会のいろいろな次元での請負関係という在り方というような自立性を表す言葉であり、ローカルな存在だということを表していること思います(5)」と述べておられます。
 ここにおいて、@の前提であった「江戸時代」という時期、そして、「幕府(将軍)への服属」、つまり家臣・家来という(外様大名にとってはネガティブな)ニュアンスも失われており、「拡大解釈」ともいえます。しかし、利家の死(1599年)は、江戸開府(家康の将軍就任)以前どころか、関ヶ原以前であり、かつ利家は家康に服属していないにも関わらず、こちらが現在の通説になっているのです。




◆通説となった理由は?

 【表1】は各種事典、著書類にみる前田利家、前田利長の記述事項を年代順に抽出したものです。ここからうかがえることを時系列にまとめてみます。

○江戸時代の書籍等に利家は、表1文献6(原本未確認)を唯一の例外として、「藩主(藩祖)」などと記述はされていない(「大納言様」、「国祖」などと記述)。通説は少なくとも明治以降に成立したと考えられる。

○侯爵前田家嘱託・日置 謙氏(『加賀藩史料』全18編、『加能郷土辞彙』等を編纂)は、昭和4年(1929年)発行の『加賀藩史料』第壱編「緒言」において、加賀藩の始期を天正9年信長より利家の能登拝領時とするのは最も当然だが、「研究の利便上」、利家生誕時とする。即ち「加賀藩史=前田家史」とする(6)

○『加賀藩史稿』(1899年)、『加賀藩史料』編外備考(1933年)など、前田家が「編輯方」(旧藩士等の史家ら)に編集させた書籍類で使用されはじめる。これらは当然利家以下、前田家の顕彰がその主要目的である。

○明治後期から昭和初期あたりにおいて、加賀前田家初代当主(=「国祖」)である利家を、「藩祖=初代藩主」とする考え方が定着しはじめたものと考えられる。

○和嶋俊二氏(奥能登の郷土史家)の記述の変化に注目したい。24(1975年)・25(1976年)では利家項に「藩主(藩祖)」との記述はないが、28(1993年)では「加賀藩初代藩主」と明記。

○金沢大学教授らが、『国史大辞典』(1992年)など全国区の権威ある辞書類に、利長を「第二代金沢藩主。藩祖前田利家の嫡男」などと記述(31=1994年も)。平成の初期のこのあたりで完全に定着したと考えられる。

〇そして、大河ドラマ「利家とまつ」(2002年)関連本など多くの新しい本(特に旧加賀藩領の富山・石川県内発行書籍)やパンフレット類などには、はっきり「加賀藩初代藩主・前田利家」、「2代藩主・前田利長」と記載。

 つまり、「利家初代藩主説」は明治後期以降の金沢の旧藩の権威たちが発祥で、現代の旧藩領の研究者らが念押し、肉付けして、確固たる「定説」になった、“新しい説”である可能性が指摘できます。笠谷和比古氏のいう歴史認識(常識)の陥穽≠想起させます(7)

 そして、前述した藩の定義@にあるように「藩」制を新たに創設、公称した「明治新政府」(その母体である、幕末に“尊王”を掲げた諸藩)にとって、「藩」が守り、忠義を向けるべき対象が、将軍から天皇に変わった点も重要です。明治以降、旧大名家を含む華族を中心に「皇室の藩屏」と言う語も普及しました。よって、本来「藩」がもつ、「将軍の家臣」というニュアンスが薄れ、皇室の藩屏たる華族・前田家を顕彰しようする御用学者らが、「利家=初代藩主」という語をむしろポジティブな意味で積極的に用いたことも、その認識が普及した大きな要因であるとも思われます。

 しかし、利家の基本的文献とされる、岩沢愿彦(東京大学史料編纂所教授)『前田利家』(1966年)や、何より最重要基本文献『国史大辞典』13(1992年)の利家項〔三鬼清一郎(名大・神奈川大教授)執筆〕には「藩主(藩祖)」の記述がなく、「安土桃山時代の武将」とのみあることに留意すべきでしょう(30も)。
 また、中央で発行された1994年以降の新しい辞書類(aA32、33、38、41、43)には、「加賀藩主前田家の祖」等とあって、利家を直接「初代藩主(藩祖)」としていません。つまり、「藩祖」と「家祖」を区別しており、「(後に)加賀藩主(となる)前田家の祖」(≠利家初代藩主)という解釈もできる記述をしている点にも留意する必要があります。

 「藩祖」の定義は「藩主の先祖。また、藩の初代領主」(「デジタル大辞泉」小学館)や、「藩を創設した人。藩主の先祖」(『大辞林』三省堂)とあり、「0代」とも「初(1)代」ともとれる矛盾した意味を含むことに注意すべきでしょう。つまり、人によって「藩主/藩祖」の言葉の捉え方が違うのです。




◆他の外様藩(特に織豊大名)の場合は?

 では、利家のように家康に服属しておらず、完全なる「織豊大名」の状態で、死去、または隠居などして代替わり(家督相続)し、次代が家康に服属した場合、その先代(織豊大名)が「初代藩主」とされている例はあるのか?という疑問が浮かんできます。他と比較し、客観視することによってみえてくることがあるはずです。
 あくまでも「代替わり」がポイントで、桃山(秀吉政権)期から江戸初期という激動の時代を一人で生きぬいて、「織豊大名→徳川大名」と素直にスライドした例(8)は除きました(加賀藩の場合、利家から利長への家督相続が慶長3年(1598)4月20日で利家死去が翌年閏3月3日という微妙な時期にあたるので、ややこしくなっているのです)。
 一部ではありますが、そのような例に当てはまると思われる旧外様藩領にある、全国の県立図書館レファレンス担当の方にアンケート調査をしてみました。改めてここに感謝申し上げます。
 結果はこちら→【表2】秀吉期から江戸初期に代替わりした主な外様大名の初代藩主とその先代の呼称

 その結果、利家のような織豊大名は、「初代藩主」とされていないことが判明しました(各地の地元発行主要文献による)
 ※盛岡藩初代・南部信直(1599年10月5日没)と飫肥藩初代・伊東祐兵(1600年10月11日没)は早い時期に死没していますが、共に秀吉死(1598年8月18日)後に家康に従属しています。

 ちなみに「藩祖」を「0代目藩主」の意味として用いているのは、今回の調査では、次の5藩でした。佐賀藩 鍋島直茂(9)、徳島藩 蜂須賀家政(10)、狭山藩 北条氏規と、最近では長州藩 毛利輝元と福岡藩 黒田孝高(如水)も「藩祖」とされはじめているといいます。
 さらに、蜂須賀正勝〔藩祖(0代目)・家政の父〕と上杉謙信(初代藩主・景勝の養父)(11)は「家祖」とされていました。




◆「加賀藩」の成立はいつか?

 それでは「加賀藩」そのものの成立はいつなのか、つまりは「初代藩主」は誰なのか?という難問を考えてみたいと思います。
 その候補時期は次の六つがあげられると思います。

【1】天正9年(1581)10月2日〔初代藩主・利家〕
  ⇒利家が織田信長から能登一国を拝領した時点(信長朱印状は10月2日付)。
 おそらく現在の「通説」はこの時点をもって「加賀藩」が成立したと考えているのでしょう(もしくは同11年(1583)、秀吉よりの北加賀加増時か)。しかしこれは、前述したように「藩」の定義の「A近世大名領の藩制の原型はすでに織豊大名領に存在した」に依拠しているもので、本来的意味合いの上記@(江戸時代、江戸幕府への従属大名=家来)ではなく、筆者は「拡大解釈」であると思っています。
 この説を支持する二つの文献を挙げてみます。
・「加賀藩史と前田家史との間に、完全なる融合を発見」(日置謙「緒言」『加賀藩史料』第壱編、1929年初版)(12)。しかし、原昭午氏は「前田氏領国の成立=加賀藩の成立」との見方は妥当ではないだろうとされています(13)
・「天正期の藩政のはじまりから」(『氷見市史』1 通史編一(氷見市、2006年)p354)

【2】慶長4〜5年(1599〜1600)〔初代藩主・利長〕
  ⇒慶長4年閏3月3日の利家死去から、いわゆる“(加賀藩の)慶長の危機”を経て、関ヶ原の戦いに至る期間。
 利家は死に際し、利長に「三年加州(加賀国金沢)へ下り申し候儀、無用に候」、即ち3年間は上方を動くなと遺言。しかし、8月、利長は遺命に背き金沢に帰国します。この時、利長は豊臣秀頼の傅(守)役、及び五大老として大坂城に在城していました。翌9月、利長を首謀者とする家康暗殺計画の噂がおこり、家康は諸大名に加賀討伐を命令しました(先鋒は小松城主・丹羽長重)。
 金沢では和戦二派により激しい議論がおこりますが、利長は家康への従属を決断します。家康の元に10月以降3度、重臣・横山長知らを派遣、弁明させます。そして、利長母・芳春院(まつ)を人質として江戸に下向させることで和解が成立します(関ヶ原戦後には秀忠娘・珠姫と利常の婚約も成立)。これは大名妻子初の江戸定住であり、江戸への人質第1号ともいわれます(解放は15年後の利長死後)。
 翌5年(1600)6月、芳春院江戸下向。8月3日、西軍の大聖寺城(加賀市)を攻略し、越前金津まで進軍し、越前を平定。金沢への帰途、浅井畷(小松市)で丹羽長重と合戦。その後、弟で能登国主・利政の出陣拒否、丹羽との和睦交渉などに手間取り、9月15日の関ヶ原の戦いには参戦できませんでした。
 10月17日、大津にて家康より40万石(能登と南加賀)を加増され、加越能120万石を領知します。しかしこの時、「領知判物」の発行はありませんでした。つまり、家康は当時未だ豊臣家大老という立場であったことを示しています。
 この一連の流れを経て加賀藩が成立したとするのは、『富山県史』で、「利家の死と関ヶ原の戦いを通じて加賀藩の成立をなしとげた利長は、慶長六年(一六〇一)以降は内政に目を向けることになる」(14)としています。しかし、高澤裕一氏は関ヶ原の時に既に徳川に従属的であったと見てきた通説は改められる可能性を指摘しています(15)

【3】慶長8年(1603)2月12日〔初代藩主・利長〕
  ⇒家康に征夷大将軍宣下。江戸開府。
 この時、正式に江戸幕府が始まります。しかし、加賀藩も同時にスタートした、とする説は管見の限り見当たりません。

【4】慶長10年(1605)4月8日〔初代藩主・利長〕
  ⇒(この前日、家康、秀忠へ将軍職継承を奏上→16日宣下)。利長・犬千代(のち利常。13歳)が家康・秀忠に謁見。犬千代が元服し利光と改め、従四位下侍従兼筑前守に叙任、松平姓が下賜されます。そして、6月28日、利長が44歳で隠居し、利光に家督を譲ります。
 この時を画期として重視するのは、原昭午氏(「徳川氏に臣従した画期と規定」)、大野充彦氏(「徳川への従属の最後の画期」)らですが、高澤氏はこの両氏の見解に疑問を呈しています(16)

【5】慶長16年(1611)4月12日〔初代藩主・利常〕
  ⇒後水尾天皇即位の日、家康は在京の北国・西国の大名を二条城に集め、「三か条の置目(法令)」を示し誓紙を提出させます。利常(当時利光)は署名しましたが、利長は幕府より上洛無用であると、一度ならず二度までも通達を受けていました(同年1月晦日と2月8日付)。
 近年、この誓紙を重視する説が多くあり、例えば「秀頼からはないが、ほぼ全ての大名から提出させている。徳川氏への臣従を誓っており、政権確立にとり一つの大きな画期」(藤井譲治編『天下人の時代(日本近世の歴史1)』吉川弘文館、2011年)であるとしています。

【6】慶長19年(1614)9月16日〔初代藩主・利常〕
  ⇒前田家が幕府から初めて「領知判物」を与えられた日。
 「後陽成天皇譲位の日(慶長16年3月27日)以降、歴代将軍は諸大名から「公儀の御為」を旨とする誓詞を徴し『武家諸法度』の遵守を命じて、十万石以上は御判物、それ未満は朱印状を以て所領を安堵するという契約による統制があった」(「藩制」『国史大辞典』第11巻、吉川弘文館、1997年第4版)
 慶長16年からこの「契約」があったのにもかかわらず、前田家が幕府から初めて与えられた「領知判物」は慶長19年(1614)9月16日付の徳川家康から利常宛(秀忠からは同年同月23日付)です。それは、利長死去(1614年5月20日)後であり、翌月、芳春院が江戸での15年の人質を解かれます(代わりは利常母・寿福院)。この二つの事実は重くみるべきで、単に利長死去による遺領相続認知ではなく、幕府は利長を「藩主(家臣)」と認めておらず、実権をもった「当主」とみていたとの解釈ができます。

 この時点で加賀藩成立とする文献をいくつかあげます。
・「これ(領知判物発給←引用者注)により、前田氏の統一的領国統治権が成立するにいたるのであるが、それは、徳川氏の全国統一支配の最終的完成と表裏する事実であることを、看過できないのである。このことにおいて、いまや、加賀藩なる称をもって把握できる対象が、名実ともに現実のものとなったとしてよいだろう」原昭午『加賀藩にみる幕藩制国家成立史論』東京大学出版会、1981年
・「利長は一度も徳川に敵対もせず、しかし臣従することもなかった。徳川も利長をそのように扱ったのであろう。幕命の御手伝普請は利常が務めるが利長には課されなかった。五大老家康の若き同僚の立場を保ち続けたといえる。そして死によって秀頼守護の立場も捨てることなく終わった。命をかけた利長の「守成の功」は、その果敢な積極性において評価すべきであろう。こうして前田氏は徳川方として家を立て、(慶長19年)六月に芳春院が解放された。そして九月二二日付で、徳川家康の判物に任せて加越能三か国の領知を認める将軍秀忠の朱印状が、利常に対して発給され、利常が徳川方として大坂冬の陣に参加し、両家の主従関係が定まったのである(澤裕一「前田利長の進退」『北陸社会の歴史的展開』、同「「前田利長の進退」補説」『金沢学院大学美術文化学部文化財学科年報』創刊号)、同氏『氷見市史』1通史編一(2006年)。
・「(慶長19年・1614年)九月十六日、利常は駿府において家康に拝謁し、加越能三か国一円の領知判物と秀忠の安堵状を初めて拝領した。ここにおいて利常は、戦争直前の形勢の中で家康・秀忠との間の主従関係を改めて確認することとなる。「加賀藩」の成立である。」見瀬和雄執筆、澤裕一編集総括『金沢市史』通史編2 近世(2005年、金沢市)p29

 上記三点とも代表的研究者らによるここまでの断言であり、且つ三つ目は本場金沢の公式な市史です。極めて重要な指摘であり、重視せざるをえません。




◆まとめ

 徳川大名を「藩」とする考え方・用法は、江戸時代中期以降、形式論・観念論を重視する儒学者らにより「発明」されました。よって「加賀藩初代藩主・前田利家」のように、他藩では用例が無い織豊大名を「初代藩主」とする拡大解釈(実質論)をせず、「発明」当時の“形式・観念”を重視すべきであろうと思います。
 すなわち上記の【6】(慶長19年(1614)9月16日)の時点で「加賀藩成立」とみるべきであり、「(加賀前田家)家祖・利家」、「藩祖・利長」、「初代藩主・利常」とすべきであると思います(もっとも先述の「藩祖」の定義のうち「藩主の先祖」という面を重視するならば、利家も「藩祖」といえなくはないですが…)
 この時に、名実共に前田家が「徳川大名」となったと思われます。たしかに利長は、【2】の時点で家康に従属し、その後も死ぬまで幕府への忠義を徹底させましたが、家康(幕府)はそれを認めず、利長に対して終生疑いの目を向け続けたと考えられるのです。なぜなら、人質・芳春院を利長生前に返さない。松平姓を付与しない。慶長16年「三ヶ条の置目」に署名させない。いわゆる「新川郡返還問題」。慶長12年(駿府城)以降の御手伝(天下)普請は利長にではなく利常にのみ課す。領知判物を発給しないなどのさまざまな事実が、幕府の利長への警戒心を示していると思われるからです。

 「藩」はそもそもが学者の「ならわし」や「研究の利便上」による解釈であり、藩成立期当時は通用しない「歴史用語」なのですから、現在もそれを重視して、「名」(誓紙提出、領知判物発給などの形式)と「実」(人質差出、軍役や普請役負担など幕府への従属実態)がそろって、はじめて「藩」が成立したと考えるべきでしょう。よって、冒頭に示した、「藩祖・利家」、「初代藩主・利長」説も筆者はとりません。
 佐賀藩・鍋島直茂や長州藩・毛利輝元は、共に江戸初期まで藩政確立に尽力しましたが、「藩主」とされていない、という例も参考に考慮すべきだと思います。

 以上、加賀藩成立や歴史用語である「藩(主)」について述べてきましたが、実際にそれより重要なことは、利家(秀吉死後、豊臣家の柱石で、家康に対抗しうる唯一のカウンターパワー(17))と利長(家を存続させ、藩の基礎を確立)、利常(藩制・藩政を確立、発展)のそれぞれの歴史的意義や役割(18)を正当に認識し、評価すべきであるということだと思います。




【注】
(1) 主にフリー百科事典「ウィキペディア」によるものと思われる。これは誰でも編集可能であり信頼度は低いが、ネット上においては極めて普及しており、影響力は甚大である。これを参考に拡散しつつあるものと考えられる。
(2) 金井 圓「藩」(『国史大辞典』第11巻、吉川弘文館、1990年)
(3) 藤井譲治編『天下人の時代(日本近世の歴史1)』吉川弘文館、2011年
(4) 金井 圓「藩制」(注(2)に同じ。)
(5) 深谷克己「〈講演録〉藩とはなにか」『加賀藩研究』第1号(加賀藩研究ネットワーク、2011年6月)p7
(6) 日置 謙「緒言」〔『加賀藩史料』第壱編、(財)前田育徳会、清文堂、1980年復刻版(1929年初版))
「この加賀藩(中略)の始期を何れの時に措くべきか、(中略)即ち厳密に前田氏の領土が、加賀・能登・越中の大部分を含むこと、恰も後世の如くなれる時を択ぶべしとせば、前田利長卿の世、慶長五年関ヶ原戦役以降に在りとせざるべからざるも、これを以て加賀藩治の発端とすべからざること勿論なり。(中略)三国中の能登は、是より先天正九年織田信長の利家卿に授けたる所なるが故に、遡りてこゝに及ぶことは最も当然なりとし、(中略)天文七年卿が尾張愛知郡荒子に生誕したる時に端緒を求むるも、研究上の利便寡しとせず。況んや此の如くにして、加賀藩史と前田家史との間に、完全なる融合を発見し得べきに於いてをや」
(7) 笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件 ―歴史認識生成のメカニズムとその陥穽」(国際日本文化研究センター「日本研究」第22集、2000年)。
「本事件をめぐる議論は、はしなくも我々の歴史認識を形成していくメカニズムと、そしてその陥穽についても興味ある論点を提示してくれている。(中略)権威ある書(旧陸軍参謀本部戦史課編『日本戦史・関原役』1893年、徳富蘇峰『近世日本国民史・関原役』民友社、1922年←※引用者注)中の、ささいな、そして不用意で曖昧な表現が、後続のこれまた権威ある書物によって追認され、より明確な表現が施されることによって、確固たる事実認識が成立してしまう事情を示してくれている。そしてそれらの論述が後続の論著によって無批判に祖述されていくことによって、その事実認識は再生産され、さらには後の時代の高名な学者たちの論著の中でも再述されることによって、いつしか何人も疑いを差し挟む余地のない歴史の常識として定着してしまうこととなるのである」
(8) 松前藩・松前慶広(15481616)、津軽(弘前)藩・津軽為信(1550-1607)、久保田(秋田)藩・佐竹義宣(1570-1633)、仙台藩・伊達政宗(1567-1636)、米沢藩・上杉景勝(1556-1623)、伊予松山藩(のち会津藩)・加藤嘉明(1563-1631)、津藩・藤堂高虎(1556-1630)、姫路藩・池田輝政(1584-1613)、高知藩・山内一豊(1545?46?-1605)など。
(9) 鍋島報效会徴古館主任学芸員 藤口悦子「佐賀藩」、『歴史読本』2007年6月号、新人物往来社
「肥前佐賀の地は、戦国時代は龍造寺氏の支配地であった。「五州二島の太守」隆信亡き後はその子の政家が継ぎ、武徳備えた重臣鍋島直茂が後見した。(中略)政家隠居後その嫡子高房を後見したが、慶長十二年(一六〇七)相次いで死去し、龍造寺氏は絶えた。跡を受けた鍋島氏は佐賀城の総普請と総検地を実施した。慶長十八年には直茂嫡子勝茂に三十五万七千石余の所領が安堵され、外様大名・鍋島佐賀藩が誕生した。よって、直茂を藩祖、勝茂を初代藩主とする」
(10) 徳島県立図書館の調査による地元発行文献、及び徳島城博物館の見解。
(11) 米沢市上杉博物館学芸員 角屋由美子「米沢藩」『歴史読本』2007年6月号、新人物往来社
「戦国武将として著名な上杉謙信の死後、養子の景勝は豊臣秀吉に従い五大老となり、会津一二〇万石を所領としたが、慶長六年(一六〇一)、関ヶ原の戦いに敗れ、米沢三〇万石に減封され初代藩主となった。ここに近世米沢上杉氏が始まるのであり、藩祖は上杉景勝である。しかし、米沢では長らく藩祖を上杉謙信としており、小学校の校歌でも歌われている。これは徳川将軍家に服属していた大名家を藩とする歴史の概念を誤ったものであるが、米沢にとって特別な存在である上杉謙信を明確に位置付けたいと願う市民の崇敬の念であったかもしれない。上杉謙信は「長尾上杉氏」の祖と言えるので現在は家祖を使うようにしている」
(12) 注(6)に同じ。
(13) 原昭午『加賀藩にみる幕藩制国家成立史論』東京大学出版会、1981年
従来の理解では、前田氏領国の成立、即加賀藩の成立、とみなされてきたのであるが、それは妥当ではないだろう。中央政権としての織田・豊臣・徳川の各政権の性格の相違は、前田氏の大名としての性格・領国支配の内容を規定し、おのずから変化・発展せしめたとみなければならないからである(※領国大名前田氏の起点は、織田政権下にあるが、その間は、わずか一年にも満たない。したがって、同氏の領国大名支配の成立・展開は、基本的に豊臣政権時代に属することになる。本書では、その時期と、のちの徳川幕府成立後とを大別して、加賀藩の称は、後者に対応するものとして用いている
(14) 『富山県史』通史編V 近世上(富山県、1982年)p106。
(15) 高澤裕一「「前田利長の進退」補説」『金沢学院大学美術文化学部文化財学科年報』創刊号、2001年、p8
「(慶長)七年正月、利長江戸ニ如キ(参勤交代第1号ともいわれる。引用者注)母氏ヲ省セント欲ス、是ニ於テ内府に謁ヲ執リ諸侯ノ卒トナラント請フ、内府之ヲ京師ニ避ク」(『加賀金沢 前田家譜』明治期、前田利嗣提出)/(中略)この記事が事実ならば、利長は婚礼の件だけでなく、芳春院に会うことと、家康に面会して(三年前の利家がそうであった如く)徳川と共に諸大名を統率する立場に立とうとしたのであり、この時点において、前田が徳川に対してかかる要求を試みうる立場を保っていたとすれば見逃しえない事である。これに先立つ関ヶ原の陣の時にすでに徳川に従属的であったと見てきた通説は改められることになる。だが、家康の肩透かしに遭って果たし得なかったし、その後は徳川に臣従する立場になってしまったため、この事は明治を迎えるまで前田の側で秘されたのではなかろうか」
(16) 高澤同上論文p9
「たしかに金沢の本藩は徳川方になったが、ただ利常が幼年であるため利長が監国(政治代行:引用者注)せざるを得なかった。そして利長は何があっても秀頼方と自認する二二万石(一六万石、一九万石説等もある)のれっきとした大名であった。原・大野氏ともに、本藩と隠居利長を区別することを失念している」
(17) 前田利家の「存在感」(主に、岩沢愿彦『前田利家』1966年 より)
 秀吉没(1598年8月)後、家康は法度に背き、伊達、福島、蜂須賀ら有力大名と姻戚関係を結びます。翌年1月、利家以下四大老と五奉行は家康らに詰問の使者を送ります。この事件に端を発して、以下のように諸大名は家康(伏見)と利家(大坂)のそれぞれの屋敷に集結したといいます。
【家康派】福島正則、池田輝政、森忠政、織田有楽、黒田如水・長政父子、藤堂高虎、有馬則頼、金森長近、新庄直頼(以上※@)。蜂須賀家政、山内一豊、有馬豊氏、京極高次・高知兄弟、脇坂安治、伊達政宗、新庄直忠、大谷吉継、堀秀治、最上義光、田中吉政(以上※A)など。
【利家派】毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、細川忠興、加藤清正、加藤嘉明、浅野幸長、佐竹義宣、立花宗茂、小早川秀包、小西行長、長宗我部盛親、岩城、原、熊谷、垣見、福原(以上※B)。織田秀信、織田秀雄、石田三成、増田長盛、浅野長政、長束正家、前田玄以、鍋島直茂、有馬晴信、松浦鎮信(以上※A)
※@『関原覚書』、A2014年4月23日 本郷和人氏講演レジュメ、B『武徳安民記』
 まさに天下を二分するほどの錚々たる顔ぶれで、一触即発の事態を迎えたことがわかります。石高では家康(約256万石)に対し、利家(83万石)は大きく引き離されてはいますが、逆にこのハンデを考えると、利家の人望は家康を大きく圧していたともいえます。まさしく唯一の“カウンターパワー”であったといえるでしょう。
 大老などの大大名は利家派であり、家康は不利を悟ったのか、翌2月、四大老・五奉行は家康と和睦し誓紙を交わしました。次いで利家が家康屋敷を訪ね、そして翌3月、病の利家を家康が見舞い、和解が成立しました。利家は翌月閏3月3日に亡くなります。
 そして、利家死の翌日に、「石田三成襲撃事件」が勃発します。利家の存在そのものが、武断派の暴発を抑えていたことがわかります。
「自らの死期が近いことを悟った秀吉は(中略)前田利家には大坂城にあって秀頼の後見をなすことを託すとともに、家康には伏見にとどまって公儀の政務を司ることを要請し、実力者たちの勢力均衡を図ることで、秀吉没後の政治の安定に意を用いた。しかしながら、翌四年閏三月三日に秀吉のあとを追うようにして前田利家が没すると、またもや政治的バランスは崩れ政情は不安定なものとなった。そして利家の死とともに勃発したのは家康をめぐる抗争ではなく、豊臣系武将たちの石田三成に対する襲撃計画であった」注(7) 笠谷氏前掲論文
(18) 前田家三代の歴史的意義・評価
【利家】
歴戦の武将で人望に厚い(律義者)。織豊大名。秀頼傅役・五大老(秀吉の信頼)。秀吉死後、豊臣家の柱石で、家康に対抗しうる唯一のカウンターパワー(17)。加賀前田家初代当主としてのちの「加賀藩」の基礎を築いた。「家祖」とすべき(例:上杉家の謙信、蜂須賀家の正勝)。
・前述のように、徳川に臣従していない利家を「藩主」とすることは、「藩」の本来の意(徳川の家来)に合いません。外様大名の「初代藩主」≒最初に徳川に臣従≒ある意味「不名誉」(決して「顕彰」にはならない)⇒利家に対して“失礼”であり、“不敬”。
【利長】品行方正。積極的「守成」。秀吉死後、徳川との対立を死ぬまで回避⇒「遺言」では幕府従属を徹底。豊臣家擁護(五大老・秀頼傅役)という苦悩を伴う立場を貫きつつも、いち早く徳川に従い、多くの家臣、領民の生命・財産を救う⇒世の安定(平和)に大きく寄与。
・藩祖(0代目藩主)として加賀藩政の基礎を確立。※『懐恵夜話』→「瑞龍院様(※利長)守成之御功は無類事也。(中略)御家の御栄、三ヶ国之人民手足を安きに置事、大納言様(※利家)御草業之御功は更にも不言、且瑞龍公の御守成の御勝れ在し故也。(中略)瑞龍公御手自ら御毒を上りし事、御家を大事に思召、且は三ヶ国之民を恵み思召す事、御仁愛無比類事也。数代御恩沢に浴する者誰か涙を落さゞらんや。」
・妥当(穏当)な案として利長を「加賀前田家2代当主」としたら(「2」という数字は変わらずに)問題はないですが…(意味を多く含む「藩」という語を使わない)。
【利常】徳川の婿(親戚)。前田家初の「松平姓」と「領知判物」下賜⇒名実共に「加賀藩」の成立。大坂夏の陣での首級3200(2番手柄)→四国移封拒否。将軍家と婚姻政策〔光高と家光養女(水戸頼房娘=家康孫)、綱紀と保科正之娘(秀忠孫)の婚姻〕。御三家に準ずる地位。「一番大名」。「寛永の危機」を乗り越えて家を存続。金沢など各町を整備。加賀藩政を確立(改作法、塩専売、七木の制、治水、大坂廻米、建築・美術工芸など殖産興業)→「初代藩主」


(主査学芸員 仁ヶ竹 亮介)







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原本作成日:2015年1月10日;更新日:2018年3月8日