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学芸ノート 【第2回】 河東碧梧桐書簡


【第2回】 河東碧梧桐書簡


 平成14年に開催した、企画展「郷土の俳句・俳画」の事前調査により見出された、興味深い史料を紹介します。

〔河東碧梧桐肖像(明治44年)〕
河東碧梧桐肖像(明治44年)
 近代俳句「日本派」の提唱者・正岡子規(1867〜1902)の高弟・河東碧梧桐(かわひがしへきごとう。1873〜1937)の書簡です。明治30年(1897)7月5日付で寺野甘涯(かんがい)・同竹湍(ちくたん)・山口花笠(かりつorかりゅう)といういずれも高岡の俳人達に宛てられたものです。


河東碧梧桐書簡2 河東碧梧桐書簡1
《読み下し》(旧字は新字に直した。句読点、カッコは筆者)
啓、小生、帰り来り、早速御慰問の貴翰拝読、謝し奉り候(そうろう)。
正岡子規も存外壮健にて、今日にては複(ま)た旧にかへるやうも極はれ皆々奇具(危惧)の思をなし候も、これほど嬉しき事は無之(これなく)候。されども未だ俳句の添削などには毫(わずかorごう)も従事いたさず、ただ毎日絵を見る位にて消閑罷(まか)り在(あ)り候。
右の都合に候へば何卒、御放念なし被下度(くだされたく)候。
小生も漸く昨今手紙でもかくように相なりたるにて、一時のいそがしさ名状すべからずともいふべく為に御返事の遅延致し候段、不悪(あしからず)御諒察なし被下度候先(まず)ハ貴翰迄。
 (明治30年)七月五日 碧生
 甘涯
 竹湍 三詞兄
 花笠
 団扇ふるき僧堂のわび寝忘れざる


〔西光寺前景〕
西光寺前景
 碧梧桐は想いを寄せる女性を、高浜虚子(1874〜1959)に奪われて旅立ったといいます。そして京都、金沢、能登を経て富山県西砺波郡福田村和田(現高岡市)の西光寺〔煙霞亭(えんかてい)〕にたどり着きました。明治30年6月15日のことでした。同寺住職の寺野甘涯(1836〜1907)は旧派の俳諧宗匠でしたが、弱冠24才の碧梧桐を相手に、既に還暦を迎えていたこの老宗匠は見下すこともなく、むしろ喜んで迎え、熱く俳論を交わし、共に句作したといいます。
 碧梧桐は子規門下で虚子と並び優れた青年俳人として既に高名であり、写生を重んずる日本派の俳論に触発された甘涯は、俳号を「守水老」と改め、継嗣の竹湍・向田(のち筏井)竹の門(たけのかど。1871〜1925)・花笠ら近隣の若い俳人らと日本派俳句会「越友会(えつゆうかい)」を結成するのです。これは日本派俳句会としては富山県内初、全国でも7番目という快挙でした。
〔寺野守水老肖像〕
寺野守水老肖像
 天保生まれの老人が突然現れた若者によって、旧来の思想を捨て、一念発起し最新の流行に乗り換えたのです。当時としては信じ難いことではなかったでしょうか。想像を絶する“頭の柔らかさ”といえるでしょう。守水老は後に東京の内藤鳴雪、鎌倉の小林翠涛と並んで日本派の「三老」の一人に称せられるまでになります。
 この手紙の日付は越友会結成の同30年7月25日の20日前です。西光寺にはこの他にも碧梧桐の手紙があり、結成直前に盛んに文通していたことが分かります。そして「子規は存外壮健にて…これほど嬉しき事は無之候」と当時脊椎カリエスに苦しんでいた子規の病状を伝え、碧梧桐の子規に対する思いが窺えます。これは一地方に止まらず、当時の文学界の動向をも窺える好史料といえるでしょう。


 次の宛名の一人・寺野竹湍(1869〜1942)は、守水老の跡を継いだ西光寺住職で、越友会創会当初から熱心に句作し、新聞「日本」などに盛んに投句していました。しかし、子規没(明治35年)以降、俳句熱は冷めたようで、碧梧桐が唱えた季題や定型にこだわらない“新傾向”には従わなかったようである。竹湍はまた「東南」と号する歌人でもありました。
〔山口花笠肖像〕
山口花笠肖像

 もう一人の宛名・山口花笠(1878〜1944)は西光寺の向かいに住む、当時18,9歳の若者でした。花笠は明治28年頃より守水老に俳句を習い始め、翌年には子規に手紙を出して俳句の添削を受けています。そして、越友会結成時は実質的な世話役を務め、後の同33年5月には高岡の俳人として唯一、子規に面会し直接教えを受けています。生涯“子規直門”を自認した花笠は、この碧梧桐来高で憧れの子規の高弟を前にし、またこの手紙を読んで(年上の大先輩に“詞兄”と書かれ)さぞかし喜んだことでしょう。彼はこの後も、竹の門と共に高岡俳壇を先導し、「高岡の俳人で花笠に教えを受けない者はない」といわれる程にその存在に重きをなしました。




 現在西光寺に明治から大正期の手紙・葉書類など約60点遺されていることを確認しました。そのなかに地方紙「高岡新報」の文芸欄撰者を務めた竹湍宛の投稿句や和歌が30数点ありました。竹湍が当地方の主要な俳人・歌人として、また文芸指導者として活躍していた様が窺えるうえに、これらは当地方文芸の興隆を示す貴重な史料群といえるものです。

(学芸員 仁ヶ竹亮介)






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原本作成日:2002年7月1日;更新日:2015年3月28日