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学芸ノート 【第3回】 射水郡上関村肝煎家文書(いみずごおり かみぜきむら きもいりけもんじょ)


 博物館の主要な事業のうちに、資料の収集活動があげられます。
ここでは、平成14年11月に収蔵した「射水郡上関村肝煎家文書」という貴重な近世文書類(16点)について簡単に紹介したいと思います。
 この資料は、射水郡上関村(国宝・瑞龍寺の周辺)の肝煎(前田家領における村の長。他藩の庄屋・名主)家に伝来されたと思われる史料群です。
 これらの近世文書は、同村の「村御印」をはじめ、肝煎就任の願書やその経緯、用水分水に関する争い・取極めなどに大別できます。


◆1.「村御印(むらごいん)」関係(3点)
〔越中射水郡上関村 村御印〕
越中射水郡上関村 村御印
 「村御印」とは江戸時代前期に前田家領(現富山・石川両県)各村に配布された年貢割付状です。加賀藩3代藩主・前田利常が晩年に行なった農政改革「改作(仕)法」により発給され、はじめ慶安3年(1650)、のち承応3年(1654)、明暦元年(1655)に、そして改作法が成就した、明暦2年(1656)8月1日付にも発給されました〔村御印御成替(おなしかえ)〕。更に寛文10年(1670)9月7日付にも発給されており、これは幕府に倣い加賀藩も「新京枡(1升=約1.8リットル)」を採用し改められた〔村御印御調替(おととのいかえ)〕もので、現存するほとんどはこの日付のものです。
 上関村の「村御印」も寛文10年のものです。それによると草高(くさだか=全収穫高)は691石で、新開高8石の計699石です。これは正保3年(1646)の記録による射水郡の平均村高644石と比較すると、平均的な村であるといえます。免〔めん=税率。免相=めんあい)とも〕は「四ツ二歩」即ち42%で、小物成(こものなり=米以外様々なものに課せられた雑税の総称)は鮎川役1匁となっています。またこの村御印の写しも控えのためか含まれています。
 上関村の他に隣村の大野村の「村御印」の写しも肝煎という役職の参考のためか含まれています。草高は239石で、免は「三ツ五歩」即ち35%。小物成は野役(萱、肥料となる草・腐食土等が入手できる原野があることでかけられる用益税)銀6匁です。




◆2.洪水関係(2点)

 上関村は瑞龍寺の西、千保川右岸(西縁)にあり度々洪水(川崩れ)の被害に遭いました。明暦2年(1656)の草高は772石であったが、洪水により万治2年(1659)40石、寛文6年(1666)41石の計81石が検地により石高が引かれています。
 2点のうち「千保川(せんぼがわ)洪水に際し櫂役(かいやく)免除願書」は治水工事(川除普請)及び櫂役(その資材を運ぶ船を出す負担)が重いので、免除してほしいという願書です。上関村の肝煎から十村(とむら=他藩の大庄屋)へ、更に十村から改作奉行へ出されており、算用場奉行の裏書(表の内容の承認・保証書き)がなされています。
この様に災害時以外の日常にも、様々な支払い・労役・取極めなどが行なわれていたことが分かります。



◆3.肝煎関係(2点)
〔上関村入百姓理兵衛持高倅に譲渡願書(写/部分)〕
上関村入百姓理兵衛持高倅に譲渡願書(写/部分) 上関村入百姓理兵衛持高倅に譲渡願書(写/部分)
 加賀藩領においては、肝煎に就任するに際して村民→十村→郡奉行→算用場奉行へと願書を出し、承認される必要があり、1点はその典型的なものです。
 他の1点の「上関村入百姓理兵衛持高倅に譲渡願書(写)」はそれより40年余り前の文化3年(1806)の史料で、肝煎に推された虎吉は、三辺屋理兵衛という高岡関町の町人の息子であり、町人が村の土地を買い集め〔取高(とりだか)〕、その村の村民となる〔入(いり)百姓〕ことが行なわれていたことが分かります。一般的に「入百姓」とは他村の農民か、その村の無高の農民〔頭振(あたまふり)〕が土地を得て、その村民として認められることをいいますが、この史料では町人が「入百姓」している事例です。
 藩としては中堅百姓が増加し、村々が農業を基本とした本来の姿を理想とし、またそのように数々の法令を発布したのですが、実際には商品経済の発達などの社会構造の変化により、この例のように力を持った町人や豪農への土地集中(=小作化)が進んでいってしまいます。
 町人の土地所有については従来禁止とされてきましたが、寛政12年(1800)の「高方仕法」では町居住者の子弟が取高して「入百姓」となる場合は、必ず作小屋を建てさせ、名目のみの“名百姓”は高を取り上げるということが含まれています。「入百姓」になるのならという制限付で容認されたのです。この史料もその通りの文言を使って、願い出ています。
 しかし天保8年(1837)の再びの「高方仕法」に至り町方町人の高所持を禁止し、没収とします。ですから、この史料〔文化3年(1806)〕は約40年間のみの“合法的”な期間のものということになります。



◆4.用水関係(5点)

 農業にとって最も大切な灌漑は、肝煎としては常に村政の最重要課題であったと思われます。これらは他村との「江代米(えだいまい=用水に関する代金)」や貫樋(用水路)敷設などの取為替証文や書状などであり、その一例が詳細にたどることができます。



◆5.その他(4点)
〔修験道勧進手形〕
修験道勧進手形
 上記史料の他にも、新開地の租税関係、庄川と千保川の鮭役の他村との争論関係、また、修験道の勧進手形もあり近世の肝煎家の生活の様子が幅広く、より立体的に浮かび上がって来ます。





 これらは加賀藩の平均的な近世村方村政の一端が窺える好史料といえるものです。

(学芸員 仁ヶ竹亮介)






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原本作成日:2002年7月1日;更新日:2015年3月28日