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学芸ノート 【第7回】 天正13年11月28日付徳川家康書状(北条氏規宛)


天正13年11月28日付徳川家康書状(北条氏規宛)
 この古文書は、高岡市内の寺畑喜朔氏(金沢医科大学名誉教授・日本医史学会理事)より、当館へご寄贈頂いたものです。寺畑氏は親子3代にわたる多くの貴重な資料(書画類など)を当館にまとめてご寄贈頂きました。
 今回はこの貴重な史料ついて紹介していきたいと思います。


◆時代背景 その1(上田合戦まで)

 さて、この書状は徳川家康(*1)が信州上田城(長野県上田市)の真田昌幸(*2)を攻めた「第一次上田合戦」の後、協力してくれた(後)北条家へ宛てられた礼状です。11月28日の日付をもち、年代は書いてありませんが、内容から天正13年(1585)のものとわかります。
 それではまず、そこに至るまでの時代背景をみていきましょう。

徳川家康銅像(岡崎城)Photo by (c)Tomo.Yun
徳川家康銅像(岡崎城)
 本能寺の変(天正10年6月2日)以来、信州・関東では、滝川一益(織田家重臣)・上杉景勝(*3)・徳川家康・北条家(氏政(*4)・氏直親子)という大勢力が旧武田領を巡って各地で対立する混乱が続いていました。そのはざまの小領主であった真田昌幸は、同年6月16〜19日、滝川・北条の「神流川(かんながわ)の戦い」では以前より従属していた一益について戦いますが、一益が敗れると、7月には北条家に臣従します。しかし北条と徳川が対立(天正壬午(じんご)の乱)すると、9月には徳川の配下になるという、情勢に応じた機敏な動きをみせます。
 10月、徳川・北条両家の和睦が成立。その条件は、家康の娘が氏直に嫁ぐことのほか、北条がもつ甲州(山梨県)と信州南部の領地を徳川に渡し、徳川は上州北部の吾妻・利根郡のいわゆる「沼田領」を北条に渡すというものでした。
 しかし、この取決めに昌幸は反発します。沼田・名胡桃(なぐるみ)・岩櫃(いわびつ)城などからなる上州「沼田領」は、真田家が武田家の支配下において、昌幸の父・幸隆、兄・信綱、そして昌幸の3代にわたり、独力で勝ち取ってきた“真田家重代の宝”ともいえる貴重な所領であったのです。ましてや徳川から与えられた土地という訳でもないのです。そのような大切な所領を簡単に手放せるはずがありません。
 昌幸は翌天正11年(1583)に、信州小県(ちいさがた)郡に上田城を築きますが、表面上は徳川の配下として、越後の上杉家への警戒のためではありましたが、内心では大切な「沼田領」を北条家から守る意味もあったと思われます。この「沼田領」問題はその後も数年の間くすぶり続けました。

 しかし、天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」を前に、家康は羽柴(のち豊臣)秀吉(*5)へ対するため、後顧の憂いを無くさなくてはなりませんでした。そのため年来の北条家の「沼田領を渡せ!」という激しい要求に応じざるをえなくなり、家康は昌幸に改めて沼田領の明け渡しを求めたのです。昌幸は当然拒否し、家康と対立。徳川麾下を離れ、翌年7月には、二男幸村(本名信繁。当時17歳)を人質に上杉景勝に臣従しました。その時景勝は既に秀吉配下に入っていました。つまり、昌幸は間接的に中央の秀吉勢力に属したことになったのです(10月に直接従属)。



◆時代背景 その2(上田合戦)

 そこで天正13年(1585)の8〜9月、徳川家康による真田攻め、いわゆる「第一次上田合戦(神川(かんがわ)合戦とも)」が起こるのです。家康は鳥居元忠を総大将に、大久保忠世、同忠教(彦左衛門)、平岩親吉ら約6千に、小笠原・下条氏ら信州の諸勢力約1千の、計7千余の兵を上田に送ります。
 それに対する真田方は、昌幸と幸村の籠もる上田城をはじめ、嫡子信幸(のち信之)の戸石城(上田市)など合計わずか2千の兵力でした(上杉の援軍は近くまで来ていました)。また真田家重臣の矢沢頼綱(昌幸の叔父)が守る上州沼田城には、武蔵鉢形城主・北条氏邦(氏政の弟)が侵攻しました。

上田城櫓門(c)Gin_oh Megumi/OhimesamaClub
上田城櫓門  同年閏(うるう)8月2日、激しい戦闘が起こりました。ここにおいて、昌幸の優れた戦術が光ります。柵を複雑に組んだ城下町に徳川軍をおびき寄せ、火を放ち、鉄砲攻撃、そのうえ奇襲を仕掛けるなど、数々の策略により徳川軍を撃退。さらに神川まで敗走する徳川軍を、事前に堰き止めていた上流の堰を切っての水攻め。とどめに対岸の戸石城の信幸勢が追い討ちを掛けました。徳川軍は一説に3千人ともいわれる死傷者を出すという大敗を喫したのです。一方真田方の犠牲者は、わずか40人ほどであったといいます。

 この合戦を契機に昌幸は、全国にその名が知られるようになり、またこれ以降、真田家が小領主から「大名」化したとされています。武田→織田→北条→徳川→上杉→豊臣と、転々と主を変えつつ、戦国の世を生き抜いた戦略家・真田昌幸は、のちに秀吉から“表裏比興(ひょうりひきょう)の者”と言われています。この言葉は「表裏のある卑怯な者」とそのまま解するよりも、むしろその優れた智謀を評価しているものとされています。もしかしたら秀吉は、昌幸に自分と同じ“匂い”を嗅ぎ取ったのかもしれません。

 その後、徳川軍は真田家の丸子城(上田市)も攻めましたが、これもやはり昌幸の戦術により攻略に失敗。井伊直政の援軍を得て、引き続き攻城を続けていました。
 しかし、11月13日に至り、大事件が発生します。家康重臣の石川数正(伯耆守)(*6)が秀吉の元に突如出奔したのです。これを機に徳川軍は撤退。また、沼田領へ侵攻していた北条軍も撤退しました。





◆書状の内容

 ここでやっと本題に入ります(長らくお待たせしました)。
 この書状には、数正の出奔後、家康が北条家(宛名は美濃守氏規(*7))に対して送ったその後の状況報告や、加勢へのお礼などが種々書かれています。
 それではかなり難しいですがですが、まず書状に書いてある言葉をそのまま活字に直した「翻刻(ほんこく)」(釈文とも)からみていってみます。

【翻刻】
 去廿二日之御状委/令披見候仍石河/伯耆(数正)退出已後/爰元手置等弥/堅固申付候上方之/儀至于今無殊子細候/於時宜者可御心安候/将亦御加勢之儀付而/無[  ]御心懸/雖不始□□欣悦/不少[  ]/〔反転〕
一左右次第先□□/可被[  ]候随而/真田(昌幸)方□被入御念/御懇意祝着之至候/委曲榊原小平太(康政)/可申入候恐々謹言/(天正十三年)十一月廿八日(徳川)家康(花押)/北条美濃守(氏規)殿/□報

(※カッコ、「/(改行)」等は筆者註)

 この書状は、縦31.4cm×横47.7cmで、横の中心線を「山」として、下半分を裏に折るという「折紙」という古文書の形式をもちます(ですから広げると真ん中で上下逆になっています)。見て分かるように、長年の時間の経過によって、すれていたり、破けていたりしており、保存状態はあまりよいとはいえません。上記の「□」はそれらの理由により判読が難しい箇所なのです(半分言い訳ですが…)。

家康花押部分
家康花押部分
 それでもある程度は読めていますので、今度はそれを漢字仮名混じり文(読み下し)にしてみます。

【読み下し】
 去る二十二日の御状、くわしく披見(ひけん)せしめ候(そうろう)、よって石川伯耆(数正)退出以後、ここ元手置きなど、いよいよ堅固に備え申し付け候。上方の儀、今に至り殊(こと)に子細(しさい)なく候、時宜(じぎ)に於いては、御心安かるべく候。はたまた御加勢の儀に付いては、□□□なく、御心懸け□□といえども、欣悦(きんえつ)少なからず[  ]、〔反転〕
一左右(いっそう)次第先ず[  ]らるべく候、したがって真田方(昌幸)□御念を入れられ、御懇意祝着(しゅうちゃく)の至りに候、委曲(いきょく)榊原小平太(康政)に申し入るべく候。恐々謹言(きょうきょうきんげん)
(天正十三年)十一月二十八日 (徳川)家康
 北条美濃守(氏規)殿  □(御)(ごほう)


 どうでしょうか?ところどころに難しい言葉づかいや、「□」がありますが、なんとなくニュアンスは分かってきていただけたでしょうか?
 それでは、さらにもう一歩進めて、私なりに現代語訳をしてみます。

【意訳】
 去る(十一月)二十二日の書状、くわしく拝見いたしました。よって石川伯耆(数正)出奔(11月13日)以後、当方(徳川)の処置は、ますます堅固に備えるよう(領内の諸城に)申し付けました。上方(秀吉)との間には、現在のところ特に変事はありません。状況は安心してよいものと思います。また、(沼田城への)ご加勢の件に付いては、□□□なく、お心掛け□□といえども、大変嬉しく[  ]、〔反転〕
一報次第、先ず[  ]していただきたく思います。したがって真田方(昌幸)に対しては念を入れてください。ご懇意、大変嬉しく思います。詳細は榊原小平太(康政)(*8)に申し入れてください。恐れながら謹しんで申し上げます。
(天正十三年)十一月二十八日 (徳川)家康
 北条美濃守(氏規)殿  □(御)報



 石川数正の出奔後、処置を堅固に申し付けた、また秀吉との間に変事は無く安心してよいなどとありますが、徳川の実情の全てを知る数正の裏切り行為は、家康にとって極めて手痛い事件であったはずです。この後、家康は軍法を、武田流に一新したともいわれており、家康の内心の焦りが推察されます。

 数正出奔の理由は、種々いわれておりはっきりしていませんが、軍事・外交共に優れていた数正は、家康創業より長年、西三河(愛知県東部の岡崎中心地域)の「旗頭(家老)」として、東三河(愛知県東部の吉田(豊橋)中心地域)の酒井忠次と並ぶ、徳川家の柱石でした。数正は徳川家の使者として実際に何度も秀吉に謁見していました。外交感覚あふれる数正は、旭日の勢いで伸びる秀吉の再度の人質要求を拒否するなど、あくまで強硬な態度を取り続ける家康が不安に思われたのでしょうか。
 また、家康がすでに秀吉方に二男於義(おぎ)丸(後の結城秀康)を人質として送っており、数正もその際に息子二人も人質に出していたこともその要因の一つ考えられましょうか。
 そしてそんな数正に、“人たらし”といわれた秀吉の調略の手が伸びていました。
 さらに当時、徳川家は甲信地方の旧武田領へ進出しており、それは酒井忠次のもと、榊原康政・本多忠勝・井伊直政という若い部将たちが活躍していました(のちこの4人をまとめて「徳川四天王」といわれる)。そんな状況のなか、数正は次第に孤立を深めていったといわれています。

 宛名の北条氏規(美濃守)は、北条家の外務大臣的な立場の重臣(氏政の弟)です。実は家康とは幼少時に今川家への人質同士であったという縁がある人でした。ですから家康は北条家の“窓口”として氏規に宛てて出したのでしょう。
 この書状は当時の徳川家をとりまく状況がうかがい知れる貴重な史料といえます。

 ちなみに、この翌29日に天正大地震が起き、大きな被害を受けた秀吉の家康攻略が一時中断します。そして翌年2月に和睦がまとまり、10月に家康は上洛し秀吉に従属することになります。
 一方数正は秀吉に8万石(のち10万石)で仕え、現在国宝となった松本城を築城し、城下町を造成するなど活躍しました。



昭和8年12月20日付東京帝大総長・小野塚喜平次借用感謝状(野村きく子宛)
◆付属資料について

 またこの書状には、数点の付属資料があり、来歴などを知る手がかりになっています。
 まず驚くべきことに、かの東京帝国大学からの2通の借用感謝状があるのです。
 日付は共に昭和8年(1933)12月20日で、1通は総長の法学博士・小野塚喜平次(*9)から、もう1通は同大学の史料編纂所長で文学博士の辻善之助(*10)からになっています。いずれも『大日本史料』編纂の参考のために借用し、それを謝しており、宛先は「野村きく子」氏となっています(それらが入れられた封筒は「加藤繁(*11)方」とあります)。

 『大日本史料』といえば、同所のHPによると、

 大日本史料(既刊373冊)
 古代の朝廷によって編纂された六国史(887年までの歴史を記述)のあとをうけて、明治維新までのおよそ980年の間の日本史上の事件を年月日順に掲載し、それに関する史料(日記・古文書から随筆・雑著の類まで)を原文のまま収載するもの。

 というもので、『日本書紀』以来の長い歴史を受け継ぐ、我が国を代表する歴史史料集です。明治34年(1901)以降、現在も東京大学史料編纂所が編纂し続けています。
 そこで早速、『大日本史料』を調べてみると、第11編之23(平成14年刊)にこの書状の全文が、第11編之22(平成11年刊)には一部が、「野村きく子氏所蔵文書」の名で掲載されていました。同所HPのデータベースで検索してみても、確かに昭和8年に「影写本」が作成されていました(請求記号 3071.43-13)。「影写本」とは、原本の上に薄い紙を敷いて、その筆跡を写し取って作られた複製品のことです。現在も1名の専門スタッフの方が作成しておられるようです。

 他の史料集では、『信濃史料』16巻(昭和36年刊)に、全文が掲載されていることを久保尚文先生(氷見市史編さん室)のご教示により判明しました。『信濃史料』にもやはり、「野村きく子氏所蔵文書」となっています。寺畑氏にお伺いすると、この史料が寺畑家に入ったのは終戦直後頃のことだそうです(ちなみに野村氏からではないとのこと)。したがって昭和36年の時点では、野村氏ではなく、寺畑氏のご所蔵になっているはずで、つまり『信濃史料』の編纂者は、原本をあたったのではなく、東大史料編纂所の影写本を見て採録したものと思われます。

小野攻著の解説小野攻著の解説
 それはさておき、昭和8年以降ほんの一部の研究者にしか知られていなかったこの古文書の存在が、おそらくこの昭和36年の時点で、初めて世に知られることになったものと思われます。原本は昭和8年から数えると約74年ぶりに、史料の内容は昭和36年から約46年ぶりに世に現われたことになります。

 次に、この史料の箱は2重になっているのですが、その内箱は黒漆が全面に塗られ、蓋の表には金泥で「東照大権現御書」とあり、蓋の裏には朱漆で「小埜正信蔵」とあります。
 また、「小野攻」なる人物が明治44年に書いたという墨書の和紙2枚袋綴(4ページ)のものもあり、そこには上記のような時代背景や人物の紹介がなされています。注目すべきはその冒頭上部の余白の注記です。「此書トハ小野家/伝来家康/公ノ直筆/ナリト云フ/書状ヲ云/フナリ」とあるのです。明治44年の時点で「小野家伝来」と言うくらいですから、少なくとも明治期は小野家に所蔵されていたものと思われます
 これで少なくともこの史料の所蔵者が3家判明しました。(明治期)小野家→(昭和8年)野村家→(終戦直後)寺畑家ということになります。しかし小野家以前や、この3家の間にも何軒かの所蔵者がいるものと思われます。

 この古文書は、400年以上もの間、さまざまな流転を重ねて、現在我々のもとに現われ、その歴史の魅力を放っているのです。



 本史料を含む貴重な資料は平成19年(2007)5月10日まで、収蔵品展「新資料展」にて展示・公開しています。今回の展示では他に、「刀 肥前国住陸奥守忠吉」・「脇差 賀州住兼若」や西郷隆盛・福沢諭吉・伊藤博文などの著名人の書など豊富な「寺畑コレクション」の世界を紹介しています。

※なお、本稿執筆にあたり久保尚文氏、金龍教英両氏に多大なるご協力を賜りました。ここに改めてお礼申し上げます。




【登場人物略歴】

*1 徳川 家康
(とくがわ いえやす) (1542〜1616)
 三河の松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣氏五大老の筆頭となり、秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603)江戸に幕府を開いた。秀忠に将軍職を譲ったのち駿府に隠退したが、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、武家諸法度などを定めて、幕政の基礎を築いた。東照大権現。享年75。

*2 真田 昌幸 (さなだ まさゆき) (1547〜1611)
 信濃の真田幸隆の三男。通称・喜兵衛。上田城主。武田信玄・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。関ヶ原の戦いでは、初め徳川方であったが二男幸村と共に途中で背き、徳川秀忠の西上を阻止(長男信幸は東軍)。西軍敗北後、高野山に蟄居した。享年65。

*3 上杉 景勝 (うえすぎ かげかつ) (1555〜1623)
 越後の上杉謙信の養子(長尾政景二男)。豊臣秀吉に仕え、会津若松120万石の領主、五大老の一人となった。関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、出羽米沢30万石に移封。享年69。

*4 北条 氏政 (ほうじょう うじまさ) (1538〜1590)
 関東を支配した後北条氏3代・氏康の長男。武田信玄・上杉謙信らの攻防に連携・対抗しながら領土を確保した。天正8年(1580)に嫡男氏直に家督を譲ったが、引き続き実権をもち続けた。晩年、豊臣秀吉に小田原城を包囲され、籠城の末降伏、弟氏照と共に自刃。享年53。

*5 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし) (1536〜1598)
 尾張愛知郡中村(名古屋市)の人。初名、木下藤吉郎。織田信長に仕え、戦功をたて、羽柴秀吉と名のる。信長の死後、明智光秀・柴田勝家・北条氏らを討ち、天下を統一。この間、天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり、豊臣を賜姓。また、検地・刀狩りなどを行い、兵農分離を促進。晩年、朝鮮に出兵したが、戦局半ばで病没。豊太閤。享年62。

*6 石川 数正 (いしかわ かずまさ) (?〜1592)
 三河松平(のち徳川)氏に仕えた石川康正の子。伯耆守と名乗る。幼少期から家康に仕え、家康の人質時代も行動を共にした。西三河の旗頭として、軍事・外交に数々の功績がある。家康の子・信康の後見役。豊臣秀吉との間で外交折衝役を務めたが、1585年、突如として家康のもとから出奔。その後、秀吉から信濃に8万石を与えられた。

*7 北条 氏規 (ほうじょう うじのり) (1545〜1600)
 北条氏康5男(3男氏照、4男氏邦)。美濃守と名乗る。伊豆韮山城主。家康とは今川氏の人質同士。外交・軍事に優れた。「小田原攻め」の際は和平を推進したが開戦。韮山城に2ヶ月籠城するも、家康の説得で開城。のち小田原城に降伏を勧め開城させる。氏政・氏照の介錯人を務めた。介錯後、自刃しようとしたが、榊原康政らに止められたという。後に秀吉から約1万石を与えられ、明治維新まで続く狭山藩祖となる。

*8 榊原 康政 (さかきばら やすまさ) (1548〜1606)
 三河の榊原長政の2男。小平太、式部大輔。徳川四天王の一人。幼少時より家康に仕え本多忠勝と並び武勇を誇る。数々の合戦で武功がある。小牧長久手の際、秀吉の織田家の乗っ取りを非難する“高札”を書いたという。上野・館林10万石を拝領。第2次上田合戦で真田氏により足止めされ、秀忠と共に関が原に遅参。晩年は、自ら政治に関与しなかったという。享年59。

*9 小野塚 喜平次 (おのづか きへいじ) (1870〜1944)
 越後長岡の生まれ。政治学者。法学博士。東京帝大の初代政治学教授。のちに同大総長(昭和3〜9年)。日本における近代政治学の基礎を築いた。吉野作造・南原繁・蝋山政道らを育てた。著『政治学大綱』『現代政治の諸研究』『現代欧州之憲政』など。享年75。

*10 辻 善之助 (つじ ぜんのすけ) (1877〜1955)
 姫路市の生まれ。同郷の先輩歴史学者・三上参次の勧めで国史を志す。大正9年(1920)伊勢専修寺で親鸞の真筆を発見し、その実在を証明したことをはじめ、日本仏教史研究において数々の功績がある。また明治35年より長年、東大史料編纂所に関わり、『大日本史料』の編纂に多大な功績がある。昭和4年(1929)同所の初代所長(〜昭和13年)。昭和27年、国史学界で初の文化勲章受章。著書に『日本佛教史』『日本文化史』など。享年78。

*11 加藤 繁 (かとう しげし) (1880〜1946)
 松江市の生まれ。歴史学者。我が国における中国経済史・社会史の開拓者。慶応大教授を経て、東京帝大の教授となる。中国の古代土地制度、財政史、貨幣史、産業史や思想史などの多岐にわたる画期的な研究業績を残した。著書に『支那経済史概説』『絶対の忠誠』『中国経済史の開拓』など多数。また俳句もよくし『加藤繁俳句集』も出版。享年67。



〔主要参考文献〕
・『長野県史』通史編 第三巻 中世二(長野県編、長野県史刊行会発行、昭和62年)
・『群馬県史』通史編3 中世(群馬県、平成元年)
・『大日本史料』第11編之23(東京大学史料編纂所編、2002年)、『(同)』第11編之22(同所編、1999年)
・『信濃史料』第十六巻(信濃史料刊行会編・発行、1961年)
・『戦国合戦大事典』三(戦国合戦史研究会編著、新人物往来社発行、1989年)
・『徳川家康文書の研究』上巻(中村孝也著、日本学術振興会発行、1967年再版)
・『日本近現代人名辞典』(臼井勝美ほか編、吉川弘文館発行、2001年)

(学芸員 仁ヶ竹亮介)







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原本作成日:2007年3月21日;更新日:2023年5月11日