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学芸ノート 【第9回】 高岡御車山のルーツ!?『聚楽行幸記』


高岡御車山祭 ◆はじめに

 高岡を代表する祭礼「高岡御車山(みくるまやま)祭」は、国指定重要有形・無形民俗文化財です(有形・無形の同時指定は高岡の他4件のみ)。
 高岡ではその祭礼のルーツは、天正16年(1588)4月、豊臣秀吉による後陽成(ごようぜい)天皇の聚楽第(1)行幸(2)(じゅらくていぎょうこう)に由来するという伝承があります(高岡では天皇と共に正親町(おおぎまち)上皇も御幸(ごこう)されたとしていますが、実際には上皇は参加していません)。行幸の際に天皇が乗った鳳輦(3)(ほうれん)を秀吉から前田利家、利長へと伝わり、高岡開町(1609年)の際、利長が町民に与えたといわれているのです。
 この行幸の翌月、秀吉の御伽衆(4)・大村由己(5)が著わした『聚楽行幸記』はその詳細が記録された大変貴重な史料です。
 そして最近、原本完成の翌月(行幸の2ヶ月後)に公家・阿野実政(6)が写したものを高岡市内の個人の方が入手されました。これは現在残る写本のうち、最古の年代を持つ、新発見史料と思われます。
 当館では、5月1日の高岡御車山祭をはさむこの時期(平成22年4月24日〜5月23日)にご所蔵者様のご厚意により、そのルーツともいわれる貴重な史料を特別公開いたします。



◆「聚楽第行幸」について

 今回特別公開している新出の史料についてご紹介する前に、「聚楽第行幸」についてその詳細が記録されている『聚楽行幸記』によってみていきましょう。

 天正16年(1588)4月14日から18日の後陽成天皇の聚楽第行幸は、諸大名・公家らを総動員しての、豊臣秀吉一世一代の政治的イベントでした。
 秀吉からこの一大イベントの奉行を命じられたのは民部卿・前田玄以でした。玄以は秀吉から「過去に行われた行幸よりも盛大にせよ。金を惜しむな」と命じられましたが、150年以上の久しく行幸は行われておらず、「鳳輦・牛車、そのほかの諸役以下、事も久しくすたれけることなれば、おぼつかなし」という状態でした。過去の例は、応永15年(1408)、室町幕府3代将軍・足利義満による後小松天皇北山殿行幸と、永享9年(1437)、同6代将軍・足利義教による後花園天皇の室町殿行幸がありました。玄以は諸家の古い記録・故実を調査し、必要な装束・備品・調度類を作るなど、慌ただしく準備を進めました。
 日付は当初、3月中旬(旧暦)の予定でしたが、余寒厳しく、4月14日まで延期されました。

〔4月14日〕初日はまず、牛車に乗った秀吉が御所に天皇を迎えに行きました。御所では秀吉自ら天皇の御裾を取りました。行幸の行列は延々と続き、大層賑やかで盛大であったといいます。行列は大きく分けて、@天皇の行列、A関白の行列、B諸大名の行列の3分することができます(7)。御所から聚楽第まで14〜5町(約1.5〜6km)あり、「鳳輦、聚楽の中門にいらせ給う時、牛車は、いまだ禁中を出給はず(天皇の鳳輦が聚楽第に中門に入った時には、秀吉の牛車はまだ御所から出ていなかった)」という状態であったといいます。
 全国から見物人が集まりましたが、6,000余人もの「辻がため(警護兵)」がおり、ものものしい雰囲気であったようです。見物人らの様子を由己は「かまびすしきこともなく、声をしずめて鳳輦を拝み奉るに何となく殊勝にして、感歎肝に銘じたり(騒ぐこともなく、鳳輦を拝んでいるととても感歎した)」と表現しています。
 ちなみに、秀吉の牛車は、紅絹を着て、頭に面をかけ、角には金箔が押してあるとしており、後述する「御所参内・聚楽第行幸図屏風」にはその通りの表現がしてあります。
 そして聚楽第に到着すると、「着座の規式」と饗宴が催されました。当時数えで17歳の天皇は、「初献の御かはらけより御気色あり(お酒の最初の一杯目からお顔が上気されていた)」という状態でした。夕方、酒宴が終わり、聚楽第の庭をご覧になりました。夕陽に照らされた庭には植木などが繁り若葉の中に、遅桜、ツツジ、山吹などが咲き残り、チョウチョが飛び、鳥が鳴いていました。この「いと興ありとぞ」という状況を由己は「誠に長生不老の楽しびを聚(あつむ)るものか」と描写しています。これが「聚楽第」の語源となったともいわれています。
 その後、雅楽が3曲演じられました。天皇自ら琴を弾かれ、また漢詩を朗詠されるなど大層御機嫌がよかったそうです。

〔4月15日〕当初は3日間の予定であった行幸は秀吉の願いにより、5日間に延期されました。そして秀吉は皇室に京都中の地子(じし/土地税)を全て末代まで進上するとし、書状にて銀地子5,530両余と、米地子800石を進上しました。さらに諸公家・諸門跡(もんぜき/皇族・貴族などが出家して居住した特定の寺院。また、その住職)へは近江国高嶋郡8,000石を与えました。
 さらに天皇の権威のもと、徳川家康・前田利家ら全国の諸大名から誓紙(起請文)を取りました。その誓紙には「一、関白殿仰せ聴さるゝの趣、何篇において、聊(いささか)も違背(いはい)申すべからざる事(関白・秀吉殿の仰ることは何であろうとも、少しも背きません)」という一条が入っています。これが秀吉の最大の目的だと思われます。
 本日は、和歌の会の予定でしたが、翌日に延期されました。
 そして、秀吉から天皇・公家らことごとくに引出物が進上されました。絵画・虎革・小袖・太刀など豪華な品々が、それぞれに「領知の折紙(土地分与状)」が添えて与えられたので、「各(おのおの)歓喜し給いあかず」状態でした。そして夜遅くまで酒宴が開かれ、「皆酔をつくし給うなり」とあります。嬉しさのあまり、ぐでんぐでんに酔っ払った者(特に窮乏に喘いでいた公家)もいたのでしょうね。

〔4月16日〕雨の3日目は和歌の会でした。皆に懐紙が配られ、それぞれが歌を詠み、書きました。お題は「松に寄せる祝いの歌」。そして懐紙が集められ詠みあげられました。『聚楽行幸記』には秀吉以下98名の和歌が延々と書かれています。
 数人の歌を挙げてみます。
  後陽成天皇「わきてけふ 待つかひあれや 松か枝の 世々の契りを かけてみせつゝ」
  秀吉「万代の 君がみゆきに なれなれん 緑木たかき 軒のたま松」。
  家康「みどりたつ 松の葉ごとに このきみの 千年のかずを 契りてぞみる」。
  阿野実政「ひさかたの 雲ゐの庭の 松かぜも 枝をならさぬ けふにあふ哉」。
  利家「植えをける みぎりの松に 君がへん ちよの行衛ぞ 兼ねて知らるゝ」。
  利長(当時は利勝)「かぞへみん 千年をちぎる 宿にしも 松にこまつの 陰をならべて」。
 終了後、やはり酒宴となり、夜中まで続いたそうです。

〔4月17日〕4日目は舞楽上覧でした。
 1番・万歳楽、2番・延喜楽、3番・太平楽、4番・狛鉾、5番・陵王、6番・納蘇利、7番・採桑老、8番・古鳥蘇、9番・還城楽、10番・抜頭、というプログラムでした。
 終了後、やはり酒宴となりました。そして、北政所(秀吉夫人)と大政所(秀吉母)からそれぞれ小袖・黄金などの進上がありました。
 それから、正親町上皇から和歌短冊が贈られてきました。それには「万代に 又八百万 かさねても 猶かぎりなき 時はこのとき」とありました。秀吉は悦びにたえず、次のお返しの歌を贈りました。「言(こと)のはの 浜の真砂(まさご)はつくるとも 限りあらじな 君が齢は」。

〔4月18日〕最終日の5日目は「還幸の儀式」です。
 秀吉の丁寧が挨拶がありました。やがて又、行幸していただきたいという約束をしました。そして正午頃、鳳輦に乗って天皇は御所へお帰りになりました。
 帰りの行列には、行きの時に無かった秀吉からの贈り物が付いていました。長櫃30・唐櫃20のそれぞれには、黒漆に蒔絵、彫金で菊のご紋があり、唐織の覆いが被せられていました。
 楽人が「還城楽」を演奏しながら、御所に到着されました。天皇は大変にご機嫌がよかったそうです。そして晴れの御膳の儀式があり、随行していた秀吉も聚楽第に帰りました。秀吉も限りない栄誉に、「踏舞に堪へ給わず(飛び上がって喜んだ)」という程に幸せを感じていました。

 翌19日は秀吉がお礼状に祝いの和歌を添えて、天皇・上皇へと進呈しました。そしてその返礼の和歌が贈られてきました。
 21日は公家衆らから秀吉にお礼の品々が贈られてきましたが、秀吉は受け取らず、全て対面して返品しました。




◆大村由己著『聚楽行幸記』の伝来について

 秀吉はこの行幸の直後に、大村由己に命じ、その様子を細大漏らさず記録させました。そして、1ヶ月後に完成したのが『聚楽行幸記』です。本書は行幸の基本史料のみならず、豊臣政権の構成や政策、当時の貴族の風俗・生活などもうかがえる重要な史料です。
 本書は由己筆の秀吉の伝記『天正記』全12巻(8巻が現存)中のうちで、これだけが唯一、純和文体で書かれています。ですから世に普及したといわれています。
 翻刻(活字)は次の2種があります。塙 保己一(はなわ ほきいち)編『群書類従』帝王部13、及び桑田忠親他校注『太閤史料集』(人物往来社、1965年)です。
 原本は前田育徳会尊経閣文庫蔵とされています(8)。その奥書には、「天正十六年五月吉辰(きっしん/吉日) 仰せに依りこれを記す/梅庵由己(花押)/清書 法印長諳(花押)」とあり、由己が秀吉の命により本書を著し、さらに「法印長諳」、つまり秀吉の右筆で書家の楠長諳(9)という人物が清書したことも分かります。
 しかし、世に普及した『群書類従』の内題や奥書(元和2年(1616)、釣閑斎卜諳筆)には大村由己の名は出てきておらず、楠長諳(楠木正虎)が作者のような書き方がしてあるので、『聚楽行幸記』は長らく、長諳の著作物であるとの誤解を受けていました。おそらく昭和12年(1937)に講演発表(同14年論文)をした桑田忠親氏の研究(10)まで大村由己が真の著者だという理解がなかったものと思われます。桑田氏はその中で、「卜諳の元和二年に於ける奥書によつて捏造したとも見られるのであつて、何れにせよ、釣閑斎卜諳こそ後人を誤らしめた最初の人と云つてよからう」と厳しく指摘しています。

 桑田氏は続けて、禁裏上御蔵職で、行幸の際、御物奉行を務めたといわれる立入(たてり)宗継(隆佐)が筆写した立入家本『聚楽行幸記』の奥書を示しています(資料の伝来や所蔵を示すため、「〜本(ぼん)」と通称しています)
 「此(この)行幸之記、従関白殿(かんぱくどのより)当今様(とうぎんさま/御陽成天皇)へ御進上被申出(ごしんじょうもうしいでられ)候間、写申候、作者由己ト申候而、関白殿仁(に)伺候之仁(じん)也」
 この奥書により、秀吉が『聚楽行幸記』を後陽成天皇に進上したこと、そして作者が秀吉に仕えた由己であることが分かります。
 さらに、皇室の文庫である東山御文庫本『聚楽行幸記』(楠長諳写)の奥書、「天正十六年五月 これを記す 御朱印これあり」を示し、その原本には御朱印が捺されていたとし、さらに「長諳が秀吉の命により之を禁裏に献上する為に特に謹書したそれの副本であろう」とされています。
 そして、さらに渡辺武氏(11)は「秀吉は楠長諳に清書させた一本に朱印を押して後陽成天皇に献上し、正山(昌山、足利義昭か)へも朱印の一本を贈ったことが知られる。大阪城天守閣所蔵本には秀吉朱印を有し、右二者いずれかである可能性もある」とのご指摘もなされています。

 では他に『聚楽行幸記』は何冊(何種)あるのでしょうか。
 国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は、かの『国書総目録』(古代から慶応3年(1867)までの間に日本人により著述・編纂・翻訳された書籍の所蔵先をまとめた岩波書店発行の目録)を継承・発展させた「新国書総目録」です。これによると、『聚楽行幸記』の写本は約20点が掲載されています。それらの所蔵先をざっと挙げてみましょう。
 @国立国会国会館(鴬宿雑記の内)、A国立公文書館(旧内閣文庫/2部)、B宮内庁書陵部(正保3年写)、C京都御所東山御文庫、D京都大学(大正写)、E東京大学、F東京大学文学部国文学研究室本居文庫、G京都立総合資料館(1軸)、H島原図書館(島原市)、I名古屋市蓬左文庫(寛永写)、J彰考館文庫(行列を付す/水戸市)、K尊経(楠正虎写/慶長6写)、L広島市立中央図書館(旧浅野文庫)、M多家(多忠勇写)、N勧修寺家、O宮城県図書館(伊達文庫)、P賀茂別雷神社(三手文庫泉亭本)、Q北野天満宮(久我敦通筆/巻子)、R山口大学棲息堂文庫、【補遺】S明治大学(1帖)、(21)神宮文庫(伊勢市)。(活字は上記の2件が掲載されていたので省略)
 以上の21件がヒットしました。桑田氏は先の論文で群書類従本、前田家本、東山御文庫本、立入家本のほかに、「仁和寺本・押小路家本等」があるとされています。立入家本、仁和寺本、押小路家本はどうやらないようです。その3件を足すと24件になります。中には「大正写」というのもあり、全て現物を確認しないとはっきりしたことはいえません(「補遺」2件の内容も気になります)。
 そして、肝心の秀吉の朱印が捺され、天皇(か足利義昭)に献上されたという大阪城天守閣本がないようです(これがある意味真の「原本」といえるものでなんですが…)。
 それを足すと25件になりました。




◆新出の阿野実政写『聚楽第行幸』について

阿野実政写『聚楽行幸記』(1丁) 高岡市個人蔵本『聚楽行幸記』(写)12丁 高岡市個人蔵本『聚楽行幸記』(写)50丁
 さて、やっと本題に入ります(例によって遅くてすみません)。阿野実政が写した新出史料を紹介します。
 本書の形態は本紙(文章が書かれた和紙)より一回り大きな、折本状の台紙に貼り込まれています。おそらくもとは和本であったものを分解し、現状に変更されたものと思われます。
 大きさは、本紙で縦25.2p×横20.0p(見開きで40.0p)ありますので、もとは和本でいう「大本(おおほん)」という大きさであったと思われます。折本状の全体では、縦29.0p×横21.6pあり、厚さは3.3pあります。
 枚数は50丁(枚)、今でいう100ページあります。本紙左側に丁寧に番号が書かれています。
 本紙の裏にもいろいろな字が書かれています(かなり見にくい部分もあるのですが…)。これは要らなくなった反故紙の裏をリサイクルして書かれているのです。いわゆる「紙背文書(しはいもんじょ)」または「裏文書」というものです。紙が貴重であった当時は、貴族といえどもこのようなことは珍しいことではありませんでした。屏風や襖の下張り文書などとならんで、なかには史料的に高い価値をもつものがあることで知られています。

 最後の50丁目には「天正十六年五月吉辰、記之」と本文の奥書があり、その右に「此(この)行幸之記、従関白殿(かんぱくどのより)/当今様(御陽成天皇)江(へ)御進上候申出(ごしんじょうそうろうもうしいで)候而(て)、写/申候、作者由己(ルビ「ユウコ」)与(と)、関白殿仁(に)伺(し)/候之仁(こうのじん)候也。/于時(ときに)天正十六年閏(うるう)五月吉辰 阿野侍従(じじゅう)藤原実政/生年□□□(ヤブレ)」(「/」は改行)とあります。
 既述の立入家本とほぼ同文ですね。不明である伝来経路を探るうえでのヒントになりそうです。
 最後の1行が注目です。天正16年(1588)の閏5月とあります。原本はこの年の5月に完成しましたので、つまり原本の翌月(行幸の2ヶ月後)に写したことになります。そして阿野実政の署名があります。
 先にみたように、現在知られている25件の中に、阿野政実の写しや天正16年閏5月という記録のあるものは見あたりませんでした。
 おそらくこれは新発見といえると思います。
 実政は自らも聚楽第行幸に参加しています。しかし、当時数えで8歳であり、本当にこの時に実政自らが写したものかは、今後の研究課題です(最後の「生年」の後の破れも気になります)。
 また付属の売立札によると、旧福光町出身の実業家・谷村一太郎(12)の旧蔵史料であることがわかります(偶然にも富山県つながりです)。しかしそれ以前の本書の伝来経路は不明です。
 そして、本書は反古紙の裏に書かれた「紙背文書」です。その裏(当初の表)に書かれている、和歌や覚書、書状などの内容を調査研究していくことも今後の課題です。




二番町御車山
◆「御所参内・聚楽第行幸図屏風」

 また今回、参考資料として、去年9月に上越市で初公開された「御所参内(さんだい)・聚楽第行幸図屏風」の写真も併せて展示します(写真提供・上越市立総合博物館)。
 この屏風は『聚楽行幸記』の内容が詳細に絵画化されており、優れた美術作品であるのみならず、貴重な歴史史料といえるものです。
 ここには従来の「聚楽第行幸図」に描かれていなかった、御所に天皇を迎えに行く秀吉の牛車(俗称「御所車」)が描かれており話題を呼びました。

 特に高岡においては、この牛車が御車山で唯一の二輪車である「二番町御車山」(右画像)との類似性が注目されました。形状のみならず、二番町の曳山には豊臣家の家紋「桐紋」や、鳥居の額字「宝庫(≒豊公?)」、本座(ほんざ)の千枚分銅(ふんどう)(≒「太閤の金配り」の寓意(ぐうい)?)など秀吉を連想させる要素が多く、その関係がうかがえます。




◆古文書(こもんじょ)にみる高岡御車山のルーツ

前田利長書状(3月23日付)前田利長書状(4月23日付)

 現在のところ、御車山の由緒を物語る同時代(一次)史料は、前田利長書状2通(御車山文書(もんじょ))しか確認されていません。
 共に年代不詳(1609〜14年頃)ですが、3月23日付(上画像)には「ほこくるま山」が良く出来たので金を与えるとあり、4月23日付(下画像)では、山に「おやかた」を加えなさいと命じています。
 これによると御車山には当所から車があったと考えられますが、「鳳輦」は車が無く人が担ぐものであり、矛盾が生じています。しかし、文化8年(1811)の記録(13)などの御車山の由緒書類をみると、「鳳輦」とあるのは近代の写ししか現存していない「高岡御車山騒動記」(高岡市立中央図書館蔵)のみで、他は「御所御車(御所車/御車)」など「車」の字がみえます。実は「鳳輦」説は近代以降の新しい説である可能性があります。

 文化8年の記録によると、「御所御車」は慶長2年(1597)に前田利家が伏見にいた時、拝領した「聚楽第」の御所の付属品だとしています。しかしこれは誤りで、文禄4年(1595)に秀吉の甥の関白・豊臣秀次の切腹後、当時秀次の居館であった聚楽第は破壊されており、慶長2年時点で聚楽第は存在していません。
 高岡の郷土史家・増山安太郎氏は、この伏見の秀次邸は華美壮麗で俗に"伏見の聚楽第"といわれていたとされ、このことが文禄4年8月に利家が伏見の秀次邸を拝領した史実と混同されたものと指摘されています。そして、この伏見の秀次邸に高岡御車山の原型となった御所車が付属していたのではなかろうかとされています(14)(また聚楽第破壊時、その建造物の多くは伏見城内へ移築されたともいわれており、さらに高岡城の利長居館や御旅屋には、旧伏見秀次邸の良材が使われたという伝承もあります)。
 そして同じく文化8年の記録によると、慶長14年(1609)の高岡開町時に利長は「加久弥(かくみ)関野社」に神輿(みこし)等を寄付し、上記の「御車」を神輿に供奉(ぐぶ)させる祭器とするため、高岡7町に与えて改装させ、祇園祭のような行列にせよと命じています。
 また曳山の数についても当初から7基とする説(15)が多いのですが、別の史料(16)によると、慶長16年(1611)に守山中町と木舟町が「鉾(ほこ)車山」を神輿供奉として献上し、他の町々は「傘鉾」を献じ、同18年(1613)に現在御車山を持つ他の5町も「車曳山」を献上して7基になったとしています。そしてこれを高岡城で利長が上覧し、お褒めの書状が下賜されたと伝えています。

 しかしこれらはあくまでも後世の記録であり、「伝承」の域を出ません。高岡御車山祭は古代の信仰型式を備え、また熊野信仰がその底流に流れているともいわれています。また優れた美術工芸品でもあるなど、その謎に満ちた多様な魅力は400年の間、高岡町人たちが守り伝えてきたものです。そして、これからも末長く未来へ伝えていかなければなりません。
 皆さまもこの機会に、その悠久の歴史に思いをはせてみていただけたら幸いに存じます。





〔注〕
(1)聚楽第(じゅらくてい)…豊臣秀吉が京都の旧内裏跡・内野に造営した城郭風邸宅。天正15年(1587)完成。翌年、後陽成天皇の行幸を仰ぎ、諸大名に秀吉の威力を示した。荘厳・華麗をきわめ、桃山文化の代表的建造物であったが甥の秀次の死後破却された。大徳寺唐門・西本願寺飛雲閣はその遺構と伝わる。内野御構。聚楽城。聚楽亭。その様子は「聚楽第図屏風」(三井記念美術館蔵)、「聚楽第行幸図屏風」(堺市立博物館蔵)など4点に絵画化されている。なお一般には「じゅらくだい」と読まれているが、本稿では、桑田忠親氏の指摘「一に聚楽第とも書くが、當時の古文書には亭の字を用ゐてゐる。さればダイと訓むのは誤であらう」(「聚楽行幸記の研究」『國学院雑誌』昭和14年5月号)、及び『國史大辞典』第7巻(吉川弘文館、昭和61年)の項目(渡辺武氏執筆)に準拠し、「じゅらくてい」とした。
(2)行幸(ぎょうこう)…天皇が出かけること。みゆき。ぎょうごう。御幸。行き先が二か所以上のときは「巡幸」という。古くは、上皇・法皇・女院にもいったが、のちに御幸(ごこう)と音読して区別した。
(3)鳳輦(ほうれん)…屋形の上に金銅の鳳凰を飾りつけた輿。土台に二本の轅(ながえ)を通し、肩でかつぐ。天皇専用の乗り物で、即位・大嘗会(だいじようえ)・御禊(ごけい)・朝覲(ちようきん)・節会(せちえ)など、晴れの儀式の行幸に用いた。鸞輿(らんよ)。鳳輿(ほうよ)。または、天皇の乗り物の総称。「聚楽第行幸図屏風」では30人弱で担いでいる。
(4)御伽衆(おとぎしゅう)…室町末期以後、将軍・大名のそばにいて話し相手や書物の講釈などをした人。御伽坊主。
(5)大村 由己(おおむら ゆうこ)…生没年:天文5年(1536)頃〜慶長元年(1596)。学者・著述家。播磨国三木の出身。号は藻虫斎梅庵。初め僧籍にあったが、還俗して豊臣秀吉に御伽衆として仕えた。秀吉の伝記である『天正記』〔『聚楽行幸記』など全12編(8編が現存)〕の著者として知られる。『天正記』はいずれも秀吉の偉大さを殊更強調して書かれたものであり、由己は豊臣政権の正統性を訴えるスポークスマンとしての役割を担っていたとされている。また秀吉のために、『明智討』『柴田討』『北条討』などの能を新作した。軍記物や新作能以外に、謡曲、和歌、連歌、俳諧、狂歌などに多彩な才能を発揮した。藤原惺窩や山科言継、里村紹巴など、同時代の知識人たちとの交友も知られている。また、『梅庵古筆伝』を著すなど、古筆への造詣も深かった。慶長元年(1596)に大坂で死去した。享年61。
(6)阿野 実政(あの さねまさ)…生没年:天正9年(1581)3月13日〜正保2年(1645)11月8日。正二位権大納言まで昇った公家。阿野家16代当主。実顕・実治・実好とも名乗る。実時(休庵)の子、祖父季時の猶子。細川幽斎・中院通村・烏丸光広から和歌・歌学を学び、連歌にも長じた。天正13年(1585)元服と同時に従五位下侍従。同16年の聚楽第行幸に同行。慶長17年(1612)参議。寛永10年(1633)権大納言。翌年辞任するが、翌同12年(1635)正二位。享年65。(「公卿補任」(『国史大系』第10巻、経済雑誌社、1899年))
(7)中川弘明「聚楽第行幸の行列について」(『弘前大学國史研究』90、1991年)。
(8)渡辺武「聚楽行幸記」『國史大辞典』第7巻(吉川弘文館、昭和61年)。
(9)楠長諳(くすのき ちょうあん)…生没年:永正17年(1520)〜文禄5年(1596)1月11日。諱は正虎。旧名は大饗長左衛門(甚四郎)。式部卿法印、従四位上河内守。信長・秀吉の右筆。世尊寺流の書家。はじめ足利義輝・松永久秀に仕えた。楠木正成の子孫と称し、朝廷に楠木正成の朝敵の赦免を嘆願。久秀の取り成しにより永禄2年(1559)には正親町天皇の勅免を受けて、晴れて楠木氏を名乗り、楠木正虎と改名した。のち正成の任じた河内守に叙任されている。 永禄末頃から信長に転仕する。右筆として本願寺宛起請文など重要文書の発給に携わる一方、側近として使者の応対や部将の督励といった役割にも任じた。本能寺後は秀吉に仕えて引き続き右筆を務める。享年76。
(10)桑田忠親「聚楽行幸記の研究」(『國学院雑誌』昭和14年5月号)
(11)渡辺武「聚楽行幸記」(『國史大辞典』第7巻(吉川弘文館、昭和61年))
(12)谷村 一太郎(たにむら いちたろう)…生没年:明治4年(1871)〜昭和11年(1936)。実業家。号は秋邨。また和漢の古写本、古刊本の収集家・研究家。富山県西砺波郡福光町(現・南砺市)の素封家に生まれ、慶応義塾大学から東京専門学校(現・早稲田大学)に転じ、同校を卒業。帰郷後、中越鉄道支配人、泉州貿易会社支配人を経て、明治39年(1906)藤本ビルブローカ証券会社に入社。同社取締役を務めたのち、大正14年(1925)藤本ビルブローカ銀行会長に就任。こうした実業界での活躍のかたわら、和漢の古典籍の収集に努め、珍籍稀書の入手のために大金を投じて悔いることがなかったという。銀行の退職金の代わりに銀行所有のアダム・スミス『諸国民の富』の初版本を受けたという。コレクションのほとんどが稀覯書で占められ、光明皇后願経・伝桓武天皇写経などをはじめとした古写経、五山版などが豊富に含まれている。国文学関係も多く、特に仙台藩主の伊達家に仕えた猪苗代家伝来の連歌書類は貴重。昭和17年(1942)、新村出博士との縁で京都大学に寄贈された。現在「谷村文庫」(9,200冊)は同大附属図書館に所蔵されている。また自らも江戸時代の経済学者・海保青陵の研究に尽くし、『青陵遺編集』、『陰陽談』を著わした。著書は他に『中島棕隠と越中』、『校註老松堂日本行録』などがある。(『富山県大百科事典』(高瀬重雄「谷村一太郎」)富山新聞社、1976年)
(13)「就御車山御書御印等写并古来より由緒書上申帳」(文化8年、高岡市立中央図書館蔵)
(14)増山安太郎「御車山の起源と沿革」(伊勢宗治編『高岡御車山と日本の曳山』昭和32年)
(15)(13)や、「高岡御車山騒動記」などの古記録類のほか、高野義太郎「高岡御所車曳山沿革史(抜粋)」(上記『高岡御車山と日本の曳山』)
(16)「守山町々名并釘貫紋之由来」(年代不詳、高岡市立中央図書館蔵)


(学芸員 仁ヶ竹亮介)







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原本作成日:2010年4月27日;更新日:2015年3月28日