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『高岡銅工ニ答フル書』  タカオカドウコウニ コタウルショ


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林忠正(1853-1906)著
縦27.3cm × 横19.0cm
明治19年(1886)3月9日
「林忠正草稿」用箋17枚綴
長崎圭爾氏寄贈


 高岡銅器の名工・白崎善平は輸出の不況を憂い、パリの林忠正に対策の教示を請うた。忠正は高岡出身で、西洋と日本との美術文化交流に寄与した美術商。本資料はそれに答えたもので、世界的視野から当時の日本美術工芸の傾向及び海外輸出の現況を分析し、「西洋人の『用』を考えた機能と形態の重視が必要である」などと助言をしている。
 本書はその成立に至るまでに幾つかの段階を経ている。忠正がパリで書いたとされる原本は、その題を『高岡銅器維持ノ意見』といい林家に伝世している。それは忠正の弟らの仲介で、「旧師笹原両先生」の推敲を経て、何冊か浄写されて白崎をはじめ親戚などに配布された。本書はそのうち、忠正の実家である長崎家に伝わったものである。また「旧師笹原両先生」とは高岡の教育家・笹原(のち原と改姓)北湖(雀斎)・権九郎(遂初)父子のことと思われ、この推敲により全体に表現が極めて穏便に変更されてしまっている。
 まず忠正は「意見」で高岡銅器業界全体の生産・経営の問題として種々指摘しているが、「銅工」と一個人白崎への返書へと矮小化されてしまった。当時忠正は日本美術の将来に大きな危惧を抱き、有栖川熾仁親王、伊藤博文や吉原大蔵次官などに進言していた。笹原父子はその具体的な名を全て削っている。
 そして「意見」では、不況は高岡のみならず日本全体の状況であること。ただ闇雲に作るのではなく、西洋人の生活・好みをしっかりと研究し、生活の中の工芸品から観賞用の芸術品まで多様な彼らのニーズを調査(マーケティング・リサーチ)し、それに対応すべきこと。また、西欧では職人・商人を援助する銀行・問屋・仲間組合などがあるが、それが整備されていない日本では製作・営業の価格計算をしっかりとすること。そして、適正な価格で販売すること。そして、デザインや色、モチーフなど具体的な指摘など、高い見地からの数々の助言をしている。また高岡銅器の目ぼしい職人のリストを送ってほしいなどともあり、忠正が高岡銅器を扱っていたこともわかる。
 そして末尾には、生まれ故郷である高岡を離れ15年が過ぎたが、未だかつて一日も故郷の人々を忘れたことはなく、常に思ってやまないとしている。この機会は私と兄が初めて東京に旅行した際にお世話になった白崎に対して、そして全ての職人のためになれば私の幸せはこれ以上のものはない、今後も高岡工芸のために努めて努力したく存じます、としている。
 また、「答フル書」は龍池会(日本美術協会の前身)会員・山本五郎により、『龍池会報告』第20号(明治20年1月20日)、同第21号(同年2月20日)に2回分載されている。

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林忠正(個人蔵)林忠正(個人蔵)

【林 忠正】
生没年:嘉永6年(1853)11月7日〜明治39年(1906)4月10日

 忠正は高岡一番町の蘭方医者・長崎言定の二男に生まれる。幼名・重次(志藝二)。富山藩大参事・林太仲(忠敏)の養嗣子となり、林忠正と名乗る。上京し大学南校(現東大)でフランス語を学ぶが、明治11年(1878)、大学を中退しパリ万博の通訳として渡仏。起立工商パリ支店に入社したが、同16年(1883)に独立した。
 忠正は日本の美術工芸品や浮世絵などを大量に輸出し、日本美術研究者や印象派の画家らに多大な影響を与え、当時ヨーロッパで巻き起こっていたジャポニスム(日本ブーム)の"発信源"として活躍した。その一方、印象派の絵画を初めて日本に紹介するなど、西洋美術の普及に尽力した。
 明治33年(1900)のパリ万博には民間人として初めて事務官長を務めた。



〔参考文献〕
・定塚武敏『画商林忠正』北日本出版社,1972
・定塚武敏『海を渡る浮世絵〜林忠正の生涯〜』美術公論社,1981
・木々康子『林忠正とその時代―世紀末のパリと日本美術』筑摩書房,1987
・藤井素彦「工芸の座―林忠正のおしえ」(高岡市美術館ニュース「PATIO」7号,1998)
・山本成子「「高岡銅器維持ノ意見」とそのもたらしたもの」(『とやま文学』35号,2017)
・木々康子・高頭麻子『美術商・林忠正の軌跡 1853-1906 ―19世紀末パリと明治日本とに引き裂かれて』藤原書店,2022







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原本作成日:2002年7月1日;更新日:2023年3月2日