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高岡の祖・前田利長略年譜


前田利長画像 「前田利長画像」(長光寺本複製。当館蔵)長光寺(高岡市)は利長夫人(玉泉院)の乳母の嫁ぎ先。

○前 田 利 長 略 年 譜

年代西暦年齢主   な   出   来   事
永禄5年156211月12日、尾張国愛知郡荒子城(名古屋市中川区)に前田利家の嫡男として誕生(母はまつ、後の芳春院)。
幼名犬千代、後に孫四郎、初名は利勝(後に利長と改める)。
天正3年1575149月、父利家、府中三人衆として越前府中(越前市)に転封され、利長も従う。
4年157615織田信長、近江国安土(滋賀県安土町)に築城し移る。利長もこれに従い安土に居住。
6年157817実弟・利政(利家二男)生まれる。
7年157918天然痘を患う。
9年1581208月、父の能登転封に伴い信長より父の旧領越前府中に封ぜられ、3万3千石余を与えられる
9月、信長の四女(五女説あり)・永(8歳/後の玉泉院)と婚約。
12月、永と結婚。
10年158221夫婦で上洛途中の6月2日、近江勢田で本能寺の変を聞く。夫人を尾張荒子に避難させ、信長の婿同士の蒲生賦秀(後の氏郷)らと共に信長の夫人達を日野城(中野城とも。滋賀県日野町)にかくまい、信長二男の信雄を奉じて仇討を試みるが果たせず(異説あり)。
11年1583222月、柴田勝家軍の先鋒となり近江柳ヶ瀬に出陣し、羽柴(後に豊臣)秀吉軍と戦う。
4月、賤ヶ岳の戦い。勝家敗走。父と共に越前府中に敗走し秀吉に降る。
秀吉より松任に転封され4万石を与えられる(利家は能登国及び北加賀二郡を与えられ尾山(後の金沢)に居城)。
12年1584239月、能登末森城(押水町)の戦い(少数の兵で佐々成政を破る)。
13年1585244月、父に従い加賀鳥越城(石川県白山市)を攻める。
8月、秀吉による越中の成政征伐。越中射水郡守山城(高岡市)に転封され、成政旧領の越中三郡(砺波・射水・婦負)を拝領
閏8月、古国府(高岡市)の勝興寺に制札を与える。
9月、羽柴姓を賜り「羽柴肥前守(=はひ)」を名乗る。
11月、従五位下肥前守に叙任される。
14年1586256月、伊勢大神宮に越中の田120俵を寄進。従四位下侍従に叙任される。
8月、越中砺波郡篠河村(高岡市)の市日を定め、禁令を布く。
9月、越中埴生八幡宮(小矢部市)に田60俵を寄進し、禁制を下す。
12月、豊臣姓を賜る。
この年の暮れに利家より能登一国を譲られる。
15年158726秀吉の九州(島津・秋月)征伐に従軍。4月1日、秋月種長の家臣・熊井越中の籠もる豊前巌石城(福岡県添田町)を蒲生氏郷と共に攻め1日で攻略する。
16年1588272月、千利休に家臣・中川光重(隠居後は宗半と号す)と共に茶会に招かれる。
4月、聚楽第行幸に父と共に陪席。
7月、大仏殿(方広寺)普請。前田父子1万人を負担。
10月、勝興寺に寺田100俵を寄進。
11月、領内の刀狩りを大仏殿御用として行なう。
17年158928利勝を利長と改名する。
18年1590292月、前田親子、秀吉の小田原(北条)征伐のため金沢より1万8千余を率いて出陣(利家は上杉・真田らが属する北国勢の総大将)。北国勢は4月20日、上野松井田城、6月14日、武蔵鉢形城、同月23日、武蔵八王子城を攻略。
7月5日、相模小田原城の北条氏政・氏直親子が降伏。
9月、秀吉、天下統一を果たす。
文禄元年1592311月、聚楽第行幸に陪席。
春、文禄の役。利家、肥前名護屋(佐賀県唐津市)に在陣(利長は北陸に留守し、軍需品の調達などにあたる)。
尾山城を修築し、金沢城と改める(異説あり)。
2年1593323月、砺波郡今石動(小矢部市)の永伝寺に米100俵を寄進。
4月、越中新川郡瀬戸村(立山町)陶工彦右衛門に陶器を製作させ、越中瀬戸焼を創始する(異説あり)。
8月、越中砺波郡の十禅寺社〔高岡市和田の荊波(うばら)神社)〕に祈祷所を命じ、諸役免除を認める。
9月、実弟・利政能登21万石を秀吉から与えられる。
閏9月、左近衛少将に任ぜられ、肥前守を兼ねる。
10月、自宅で茶会を開き、徳川家康を招く。
11月、異母弟・利常(幼名・猿千代、のち犬千代。初名・利光。利家4男)生まれる(越中守山城(高岡市)の城代・前田長種と姉・幸夫妻に養育される)。
3年15943310月、父と共に宇治川の堤防を築く。
11月、井波大工10人に米1俵ずつを扶持する。
4年1595349月、左近衛中将に任ぜられる。
慶長元年1596353月、家康、利長邸を訪問。
利家、一族を挙げて白山本宮(白山比盗_社,白山市)の社殿を再興する。
2年159736参議に任ぜられる。
10月、富山城に移り、大修築する
3年1598374月20日、利家より家督を譲り受け、金沢城に入城。同日、従三位権中納言に叙任される。
8月、秀吉死去し、秀頼の傅(守)役となる。
4年159938閏3月3日、利家死去(享年63)。同日、豊臣家五大老に列する。大坂城に留まり秀頼を補佐。
8月、徳川家康の勧めにより、利家の遺命(「3年間は金沢へ帰るな」)に背き金沢へ帰国。
9月、増田長盛らが家康に利長による家康暗殺計画を密告し、加賀征伐の噂が流れる。
10月以降に三度重臣・横山長知らを弁明に派遣し、母・芳春院(まつ)を人質として江戸に下向させることを約す。
12月、権中納言を辞す。
冬、高山右近に金沢城内総構を造成させる。
5年1600395月6日、芳春院人質として江戸下向(解放は15年後)。
館紺屋孫二郎に紺屋頭を命じる。
6月、家康に越後津川口より会津侵入のことを約す。
7月25日、小山評定。26日、利政と共に2万5千の軍を率いて加賀松任に出陣。
8月3日、山口宗永親子の大聖寺城(加賀市)を攻略。
越前金津まで進軍。北ノ庄城の青木一矩らが降伏、越前を平定。敦賀城主・大谷吉継の虚報(敦賀から船にて金沢を攻める)を警戒し(異説あり)軍を返す。
8月8日、浅井畷(小松市)の戦い〔小松城主・丹羽長重に襲われるが破る。浅井畷では殿(しんがり)を担った堀内景広(二上山養老寺・金光院の住職から還俗して武士となり、長連龍に従う)らが討死〕。
8月下旬、家康から北国切り取り次第と戦後母を金沢へ返す(後日反古)ことを約す。利政出陣に応ぜず、説得を続ける。
9月8日付の家康書状で越前征討の督促を受ける。11日、再び西上(利政参陣せず)。18日、丹羽長重と和議を結ぶ〔利常と長重弟の人質交換〕)
それ以前の15日、関ヶ原の合戦。利長は参戦できなかったが、戦後、近江大津で家康に拝謁。長重・利政、封を奪われる。
10月、家康より長重・利政の旧領40万石を加増され、加越能三国に120万石を与えられ、外様最大の大々名となる
この頃、利常と珠姫(秀忠娘、幼名・子々姫。後の天徳院)の婚約がなる。
12月、能登気多社に米200俵を寄進。
能登総持寺内に芳春院を創建し、米30俵を寄進。
6年160140豊国社に参拝し、銭30貫を寄進。
9月、越中射水郡二上(高岡市)の渡船を新造のため、今年を限り渡者から徴税。
同月、珠姫と利常結婚。利常を跡継ぎと定める。
19ヶ条の治安法令を出す。
7年1602412月、家康と秀頼に拝謁。
7月、豊国社に参拝し、銭20貫を寄進。
10月、金沢城の天守閣が雷のため火災。
家康の重臣・本多正信の二男、政重を3万石で召抱える(同16年に再仕官)。
8年1603421月、越中氷見郡の宇波村(氷見市)に塩田を開く。
2月、家康、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く。
5月、後藤用介に命じて大判金(梅輪大判)を鋳造させる。金沢城修築。朝廷に杉原紙を献上する。
9年160443能登で10ヶ村程度の村を組織(加賀藩特有の農民支配機構「十村制」の創始)。
大野湊神社(金沢市)の神事能、利長の合戦勝利報賽能として再開。
10年1605444月8日、利長・利常、京都で家康・秀忠に謁見。利常が元服し、従四位下侍従兼筑前守に叙任され、松平姓を賜る。16日、家康、秀忠に将軍職を譲る。
6月28日、利常に家督を譲り、越中新川郡22万石を養老領として富山城に隠居する
越中の総検地。
14年1609483月18日、富山大火、城も焼け魚津城に退避。
4月6日付で家康が射水郡関野(高岡市)に築城を許可。4月12日、富山・守山両町の材木商を集め高岡木町を開く。築城及び城下町造成工事を開始。
5月5日、「高おか」と史料上初めて見える(金沢市立玉川図書館蔵「神尾文書」一)
9月13日、未完成の高岡城に入城。高岡開町。
15年1610493月、癰(ヨウ,悪性の腫れ物/また梅毒とも)を病む。
4月、高岡城内に稲荷社を創建(のち高岡神社→高岡関野神社)。
この年、侍臣・長田牛之助兄弟らの歌舞伎者60余人を斬罪。
夫銀の制を定める。
一人娘の満(石?)姫生まれる(母は射水郡二塚村(高岡市)大坪助左衛門の娘との伝承あり)。
16年1611502月21日、満姫死去(享年は0歳と7歳の2説あり/導師は高岡の本陽寺)
4月12日、利常、京都・二条城にて、家康が示した「三ヶ条の置目」に対する誓詞を提出。 5月、病重くなり遺言を作る。
利光、越中の埴生八幡宮・安居寺(南砺市)、加賀の敷地天神社などに利長の病気平癒を祈願する。
12月、養老領のうち10万石と家臣数十人を本藩へ返す。
砺波郡西部金屋(高岡市戸出西部金屋)の鋳物師7人を諸役免除の拝領地(高岡市金屋町)に招いたと伝わる(後にさらに4人を招く)。
17年1612514月、秀忠に銀1千枚・白布100端・蒔絵長持ち10柄を、家康に銀1千枚・染絹100匹・曝布100を贈る。
18年161352正月、病重くなり家康・秀忠に刀を献上する。
3月、高岡御車山7基、高岡城にて利長が観覧。
春、新川郡返還問題。
冬、徳川と豊臣対立。秀頼よりの誘いを断る。
この年、広山恕陽が利長に招かれて、高岡に法円寺(のちに瑞龍寺となる)を創建。
19年161453病ますます重くなり京都隠棲を幕府に願って許されるが果たせず、5月20日、高岡城において死去(服毒自殺説あり)。
法円寺(のち瑞龍寺)に葬り繁久寺を再興して守らせる。戒名は「瑞龍院殿聖山英賢大居士」。正二位権大納言を追贈。
6月、芳春院、人質を解かれ(代わりは利常生母・寿福院)、江戸よりの帰途に高岡に立ち寄る。
9月16日付で家康から、23日付で秀忠から、利常に対し加越能三ヶ国の領地判物が発給される(前田家初)。
10〜12月、大坂冬の陣。
慶長20・元和元年1615
大坂夏の陣。5月、豊臣氏滅亡。
閏6月13日、一国一城令により高岡城廃城。家臣団金沢(高岡町)へ引き上げる。高岡町民離散。
7月13日、元和改元。
11月20日、前田光高(4代当主)生まれる。
2年1616
4月、家康死去(享年75)。
3年1617
7月16日、芳春院金沢城において死去(享年71)。
6年1620
利常、高岡町人に転出禁止令を出す。
9年1623
2月、夫人・玉泉院死去(享年50)。
正保2年1645
利常、利長の菩提を弔うため高岡に瑞龍寺を建立開始。
3年1646
利常、利長33回忌にあたり高岡に墓域1万坪に及ぶ御廟(平成21年国史跡指定)を造営。
明暦2年1656
瑞龍寺伽藍の主要部成る。
寛文3年1663
利長50回忌にあたり瑞龍寺が竣工(平成9年に国宝指定)。
※年齢は数え年です。

【主要参考文献】
『瑞龍公御年表』有沢貞庸著,金沢市立玉川図書館近世史料館蔵,江戸後期
『瑞龍公世家』永山近彰編纂,1914年
『高岡市立博物館開館二十周年記念 特別展 前田利長展』当館発行,1990年
『利家とまつをめぐる人々』石川県立歴史博物館編集・発行,2001年
『利家とまつ 加賀百万石物語展』島崎丞監修,NHK,NHKプロモーション、NHK中部ブレーンズ編集・発行,2002年
ほか




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原本作成日:2002年7月1日;更新日:2016年3月31日