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高岡城関係資料 「4月12日付前田利長書状(小塚淡路秀正宛)」


前田利長書状(小塚淡路秀正宛)

 【年代】慶長14年(1609)4月12日
 【法量】タテ33.0p×ヨコ49.5p
 【所蔵】木町神社



 この文書は慶長14年(1609)4月12日、利長から小塚淡路秀正に宛てられた書状である。淡路は高岡城と城下町を建設するにあたり、利長から造成の責任者に特命されていたようで、もう1点の木町に遺された利長書状(古文書史料No.18。材木865本の代金支払い状)なども淡路に宛てられている。淡路は7,000石の大身で、初代の高岡町奉行にもなった人物である。

 内容は「(利長に従って来た守山や富山の)木町(材木町)の者達が高岡に屋敷の建設を願い出ているが、まず最初に高岡木町を建設するので、その場所は何処でも木町の者達の望む所を渡そう。駿河の徳川家康のもとへ出向いている使者が帰り次第に町割りを申し付ける。放火する者は必ず追放し、少しでも不審な者は必ず捕らえよ」というもの。
 物資を大量に運搬する手段として舟運が最も重要であった当時、木町の町人達が選んだ地は、千保川(当時は庄川の本流)と小矢部川の合流点であった。この付近は淵をなし外海船の着岸が可能であり、物資の集積には最適の地であった。高岡城と城下町建設を急ぐ利長は最も重要な働きをなすであろう木町に期待し、最大限の優遇をしている。また、特に火の用心を申し付けているのは、富山大火で痛い目をみた利長の心情や性格が窺え、大変興味深い。
 古文書史料No.1の「徳川家康書状」の日付は4月6日である。使者の宮崎蔵人は江戸(とおそらく魚津の)往復を11日間で成し遂げた(これは当時としては驚異的なスピードで蔵人は褒美を貰っている)。従って、本史料の日付4月12日は蔵人が帰着するかしないかと考えられ、もしかしたら利長は家康の許可が下りる前に淡路に木町建設を命じていたかもしれない。
 高岡城建設に使われたといわれる石材(雨晴海岸、虻が島を含む灘浦沖の砂岩、早月川・常願寺川上流の花崗岩)や木材(能登・五箇山など)をはじめとしてありとあらゆる物資を高岡へ廻漕する時には木町の役割は大きかったであろう。

 木町はこの後も藩から手厚い保護を受け、25石積の平底で長大な「長舟」を駆使して木材・薪炭・竹などの販売や、米・塩などの廻漕業で発展し続け、遂には「川西七浦」(越中西部の主要7港。木町・伏木・氷見・六渡寺・放生津・海老江・灘浦)の津頭を命じられたという。
 木町の独占に不満な高岡の鴨島町、川原町、金屋町や伏木、小矢部などはしばしば木町を訴えたが、ほとんど敗れるか、不利な判決が下された。
 しかし、正徳4年(1714)に完工した庄川の河道切り替え工事(松川除普請)によって千保川の水量が減じ、大きな舟は木町まで遡れなくなると、河口地の伏木や放生津が栄えていき、木町は藩からの特権を主張し抵抗を続けるが、その勢いは除々に衰えていくことになる。
 しかし、木町の町人達は利長の恩を忘れることなく、その命日と前日の5月19〜20日に本史料を含む利長の親書を神前に供え、その報恩のため「御書祭り」を現在でも行なっている(現在は6月19〜20日)。
 「木町文書」は高岡をはじめとして、加賀藩の政治・経済・交通史を辿るうえで貴重な史料群であり、その中の本史料を含めた利長文書3点はまとめて「前田利長公御親書」として高岡市から文化財に指定されている。


〔翻刻(ほんこく)〕
「Hひをつけ候物何とそはらい/I候へく候ちとふしんなる/@木まちの物ともやしき/J物にてもとらへ候へく候/Aの事申候いつかたにても/B木まちをたて候てよき/C所をわたし可申候するか/Dよりししやかへりしたいに/Eまちわり申つけ可申候間/F其ときまつ木まちへ/Gわたし可申候/Kかしく/L四月十二日/M(端裏ウワ書)(切封)あわち まいる ひ」(丸数字は読む順番。「/」は改行)

〔読み下し〕
「木町の者ども、屋敷の事申し候(そうろう)、何(いず)方にても木町を立て候て、良き所を渡し申すべく候。駿河より使者帰り次第に町割り申し付け候間(あいだ)、その時まず木町へ渡し申すべく候。火を付け候者、何卒払い候べく候、ちと不審なる者にても捕らえ候べく候。かしく。四月十二日。淡路(小塚秀正)。参る。ひ(利長の官職名、肥前守のヒ)」






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日