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高岡城関係資料 「前田利長書状(種村肖椎寺宛)」


前田利長書状(種村肖椎寺宛)

 【年代】〔慶長15〜19年(1610〜14)頃〕4月3日
 【法量】タテ33.5p×ヨコ57.5p
 【所蔵】小松市立博物館



 この文書は、種村肖椎寺(しょうすいじ)に宛てられた病気見舞いの礼状である。利長は慶長14年の高岡入城の翌年3月に癰(ヨウ)という悪性の腫れ物を病んだといわれているので、本書の年代は慶長15年から利長の亡くなる同19年までの間ということになろう。
 内容を見ていくと、前半は病気見舞いのお礼などであるが、後半には高岡築城に関する注目すべき記述が見られる。
 その部分を意訳すると、「城の門を建築するについて、取り壊すので、今日の夕方、仮小屋をつくった」となろうか。
 ここにある「城の門」とは、一体どこの門なのか不明であるが、利長入城以降も高岡築城工事が行われていたことを示すものである。


〔翻刻(ほんこく)〕
「K返々御ミまへしうちやく/L申候/@此方御ミまいとし候て/A一下誠にはる(ばる。踊り字)の/B所しうちやく申候下旨/C給候ハヽむかへ出し可申旨と/Dめいわく申候ミ事のふミ/Eこれ又しうちやく申候/Gしろの門さくしに/Hとりこほし申候間/I今夕こやかけ候て けさん/J早々まいらせ候 かしく/M四月三日 」「(奥ウワ書)(墨封)肖椎寺 はひ/より/まいる人々御中」(丸数字は読む順番。「/」は改行)

〔読み下し〕
「此方御見舞いとし候(そうろう)て、一下(いっか)誠にはるばるの所、祝着(しゅうちゃく)申し候。下る旨給い候はば、迎え出し申すべく旨と、迷惑申し候。見事の文、これ又祝着申し候。城の門、作事に取り毀(こぼ)し申し候あいだ、今夕小屋掛け候て、けさん早々参らせ候。かしく。返す返す、御見舞い祝着申し候。四月三日。肖椎寺 はひ(前田利長)より/参る人々御中」


※この史料の情報提供並びに、画像掲載の許可は、小松市立博物館様より頂きました。謹んでお礼申し上げます。



 また宛名の種村肖椎寺は、名は三郎四郎。姓は田名村・多野村とも表記する。天正年中前田利家に従って諸所を転戦した。のち前田家を退き、慶長年中京都に居たが、利長の家康から嫌疑を蒙った際に、利長のために大いに奔走したという。
 異説として、もと柴田勝家の臣(『長家家譜』によると佐久間盛政に属していた)で、勝家の滅亡後利家が2万石を以って招いたが従わず、嵯峨に隠遁して琵琶を弾いていた。利家は嘗て信長から利長夫人(永=玉泉院)に贈られた「白雲」という琵琶を贈り、肖椎寺の孫・三郎四郎を小姓に招き、5千石を与えたが、後に三郎四郎の若党が横山山城守長知に斬りかけたことがあったため、暇を請うて遂に前田家を去ったともいう(日置謙編『加能郷土辞彙』)。
 また、種村三郎四郎宛の天正11年(1583)8月11日付の利家の知行宛行(ちぎょうあてがい)状には「弐拾八町五段半弐拾五歩 山科村 伏見村」とあるという。「山科村 伏見村」は加賀国石川郡富樫庄の内で現在の金沢市伏見台付近と思われる。






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日