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高岡城関係資料 『高府安政録』


 【年代】安政6年(1859)
 【材質】紙本墨書
 【所蔵】高岡市立中央図書館



 中条屋六郎右衛門(川上三六)著。
 本書は高岡の町政ことにその行政組織や納税状況などについて詳細に記されており、高岡の基本史料といえるものである。高岡城跡については、冒頭の「高岡開闢」の部分に記されており、城跡内の米蔵には1万石が、塩蔵には3万俵が詰まっていたという記述がある。

 著者の中条屋六郎右衛門は文政13年(1830)3月5日、高岡の町役人・高原屋の13代目久左衛門の三男として生れた。
 高原屋は逸見(へんみ)姓を名乗り、蔵宿〔藩から家臣に与えた知行地(給人知)からの年貢を収納し、運搬・保管・販売等を行なう〕を生業とし、代々町役人も務めた生粋の高岡町人である。
 中条屋も代々町役人を務めた高岡町人である。その初代は高原屋から出ており、後に何度も高原屋から嫁や養子を貰うように強い縁戚関係にあった。中条屋5代目作郎左衛門には嗣子がなかったので、また高原屋から養子を貰うことになり、この六郎右衛門に白羽の矢が立ったのである。
 幼名寅乙、諱は宜方、字は士正、号は達堂・滄洲・仲虎といった。中条屋に養子入りしてからは中条屋六郎右衛門と名乗り、明治に入ってからは川上三六と称した。
 幼時から学問を好み、詩や書をよくした。実兄の逸見文九郎(又一・舫斎)やその妻の兄で医師・山本道斎、同じく医師の小川幸三(靖斎)ら勤王の志士達の影響を受け、幕末から明治維新におそらく経済的援助を中心とした勤王活動をしたと思われるが、記録が消失し、その詳細は不明である。
 元治元年(1864)、禁門の変に端を発した幕末加賀藩の勤王派大弾圧、所謂「元治の変」に連座し、幸三は刎首(ふんしゅ。打ち首)となったが、兄・文九郎は禁固2ヶ月余、六郎右衛門も禁固1ヶ月余で無事に釈放された。
 その後、この容貌・言語・学識等が酷似していたという兄弟は、高岡で教育や町政に力を尽した。
 三六はこの『高府安政録』のほかに『射水通覧』などの郷土史の名著がある。
 明治30年(1897)9月8日、自宅の高岡市坂下町で没した。享年68。
 三六の顕彰碑は昭和6年(1931)、高岡市片原町の宗円寺に建てられたが、のち高岡古城公園内(本丸築山)の兄の石碑の横に移された。






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2023年6月17日