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『越中国高岡町図之弁』


『越中国高岡町図之弁』表紙 『越中国高岡町図之弁』初めの頁

 【年代】明和8年(1771)
 【材質】紙本墨書
 【所蔵】高岡市立中央図書館



 本書は宝暦14年(1764)3月から安永9年(1780)8月6日まで高岡町奉行を務めた小川八左衛門安村の著したもの。高岡入城家臣の姓名・石高の書上げから瑞龍寺、町奉行、及び高岡町の本町(無税地。35町)・地子町(有租地。22町)などについて詳細に記されており、高岡の基本史料といえるものである。
 単に『高岡町図之弁』と通称されている。
 明和8年(1771)に小川奉行が加賀藩へ提出した高岡町図(高岡市指定文化財,高岡市立中央図書館蔵)に付したもの。
 最後の「城地得失考」では、高岡が城地として江戸・大坂をしのぎ、「天下ノ座城トモ可成(なるべき)」と(多分に自画自賛ですが)絶賛している。



〔「城地得失考」全文読み下し〕
「凡(およそ)城下町割、城地ノ品々ニ依テ有替。城地ハ古今得失ノ論区々也。先(まづ)、繁昌ノ勝地ト云ハ、四神相応ノ地。京都平安城是神霊ノ地ト云。又青龍・白龍・赤龍・黄龍ノ地形アリ。又南北ヘ長ク、東西ハ短ク、北高ク、南低キヲ繁昌ノ地ト云。是自然ノ勝地ニ国主ノ城下ニ可用(もちうべき)所也。今高岡ノ城下、此勝地ニ応ス。東北ハ高クツヽキ、南北ヘ長ク、西ヨリ北南ヘ低ク、西北ニ山林近ク、南ニ大河アツテ、繁昌ノ地也。第一地形ニ高低アルハ、地勢自ラ為繁昌(はんじょうたり)ト云。武州江戸ヘ繁昌タラント永禄ノ頃万里和尚見玉ヒテ後栄ノ瑞相古句ヲ引テ褒玉(ほめたも)フコト甲陽軍鑑ニアリ又加州金沢ノ城地後栄ノ瑞地ナリト天正五年万里和尚茶臼山ニテ被見立(みたてられ)臥龍山ト名付対句ヲ被作(つくらる)ト云
      題臥龍山 臣守四方金沢城君祈万歳白山社
如此被褒(このごとくほめられ)所後栄到今可云(いうべき)様ナシ城下見立ノ事、自然ノ勢ヒニアリ。大坂、伏見等モ繁昌ノ地トイヘトモ、大坂西国ノ津ニシテ舟着ノ繁昌迄ニテ、天下ノ座城可成(なるべき)地ニアラス。今日本中ニ江戸ノ城地第一ト云ハ、広野打開、田畠ヲ不損シテ町家広キニ益アリ。野多シテ野菜足、船手自由ニシテ運送ニ好、神田台、駿河台アツテ地勢勝レ寔(まこと)ニ天下ノ座城ノ地ト可云。是ニ似タルノ地、諸国ニ無之(これなし)。奥州仙台ハ武州ヨリモ打開タルトイヘトモ、辺地ニシテ天下ノ人民可集(つどうべく)国ニアラス、今江戸ノ地形ヨリ宜キ云ハ、高岡ノ城地也。先城地ノ地平原トイヘトモ岡ノ上故地勢委(くわし)クアリ、外部ハ何程広クアリテ支障ナク、升形(ますがた)ハ岡ノツヽキヲ用ヒ、庄川、小矢部川ノ大川ヲ帯テ中ニ千保川ノ大川城下ヘ流、渡海ノ船着ニテ繁花(はんか)ヲ込。海ハ二里ヲ隔テ運送ニ宜ク、西ハ山林近ク薪ノ乏キナシ、砺波山ノ堅固五里ノ外ニアツテ郡打開タルコト江戸仙台高岡三ツノ地ト云都近クシテ堅(マヽ)多米穀多シテ野菜不乏寔ニ江都ニツヽキテノ勝地也。二上ノ嶽近ケレトモ却テ得アツテ失ナキ地ナリ、如此ノ勝地御見立アツテ関野ヲ改高岡トナリ新城被築、今ニ城地トナルコト可云様ナシ、天下ノ座城トモ可成コト可惜哉(おしむべきかな)、御本丸ノ広大ナルコト大坂ノ城ヨリ過タリ可有故コトナリ、且城下町割ノ事国々有違(ちがいあり)、播州姫路越前福居(マヽ)越後高田尾州名古屋等ハ城ト町ト一時ニ出来(しゅったい)シテ、侍屋敷ト町家トハ別々ニ相分ル、其様子宜キ也、高岡モ其ニ同シ繁昌ノ地ニ非レハ外ハ衰微シテ名古屋迄ナリ、高岡ハ無御城トイヘトモ今以相応ニ衰微ナシ御在城アラハ何程モ繁栄ノ地ト見ヘタリ、又薩州鹿児島奥州仙台長州萩等ハ上代ノ余風ニテ武士我領分々々ニ在住シ府ヘハ以定期出仕ス、侍農ヲ業トス是ハ城下繁昌ナルヘキ様ナシ、侍屋敷町家相分ルヽハ元来小家中故也、侍多クアルニ相分レテハ日用指支(さしつかえ)野菜塩噌(えんそ)求ルニ里数ヲ歩スルナルヘシ、故ニ江戸金府ノ外ニ入交ル城下ナシトイヘリ。今高岡ノ勝地ナルコトヲ知人ナキカ故ニ城下ノ図ヲ作テ私ニ得失ヲ論シタル也、可惜可恐(おそるべし)」
(句読点、カッコ、太字は筆者註。旧字体は新字体に直した。「マヽ」とは間違っていると思われるが、原本のまま記したの意)










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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日