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国指定史跡「高岡城跡」


国指定史跡「高岡城跡」
◎国指定史跡「高岡城跡」(高岡古城公園)
 「高岡城跡」は慶長14年(1609)、前田利長の築城。6年後の廃城の後も長らく保存されました。明治8年(1875)に公園として開放されて以来、市民の憩いの場となっています。
 築城以来、二の丸、三の丸などの馬出郭が当時のまま残り、特に水堀はほぼ完全な形で保存されており、近世の政治・軍事状況や築城技術を知るうえで貴重であると評価され、平成27年3月10日、国史跡に指定されました。【詳しくはこちら】
 城跡内の下(南)方が高岡市立博物館。上(北)方に見えるのが二上山(守山城跡)です。



○「日本100名城 スタンプラリー」のスタンプは常設展示場(本館)受付に設置しています。閉館後は、入口(屋外)に移動しますので、いつでもご自由に押していただけます!(公財)日本城郭協会WEBサイトへ


○高岡城の概要

 現在の高岡古城公園(富山県高岡市古城)一帯にあった高岡城は加賀前田家2代・前田利長(1562-1614)の隠居城として、慶長14年(1609)に築かれました。
 利長は前田家の領国である加賀・能登・越中(現在の石川・富山両県)の政治・軍事・経済的な中心地である、越中射水郡関野に目を付け築城しました。この地は周辺の守山・富山・増山・阿尾などの諸城と連携を取れば防御網の中心になり得て、さらに城の西を流れる小矢部川・千保川(現在の庄川の本流)の舟運により、後背地となる砺波・射水両平野の穀倉地帯や、外港となる伏木・放生津と密接に結ばれています。さらに、城の北から西にかけての崖下には広大な沼沢地が広がっていたのです。
 利長のその選地のうまさについては、後の江戸時代中期に(1764〜80年)高岡町奉行を勤めた小川八左衛門はその著書のなかで、高岡が城地として江戸・大坂をしのぎ、「天下ノ座城トモ可成(なるべき)」と(多分に自画自賛ですが)絶賛しています(「城地得失之考」『高岡町図之弁』所収)。
 もっとも高岡への移転・築城は、利長の居城であった富山城が炎上したことによる、偶然という側面もあります。しかし、利長は(城地選定を富田越後と神尾図書に任せてはいますが)天正13年(1585)から慶長2年(1597)までの約13年間、近くの二上山の守山城主であった経験があり、もしかしたらその頃からこの関野の地の利点に目を付けていた可能性もあるかもしれません。

 設計(縄張)は築城の名手といわれた高山右近の手になるといわれています〔長如庵(連龍)や山崎閑斎(長徳)も加わったとする説もある〕。
 しかし、最近の研究では利長自らが縄張をした可能性が指摘されています。築城及び城下町造成に関する利長の書状が約30通(他に写しは22通)も残っており、利長自らが積極的に指示したことが分かっています。これらの築城関連の古文書(一次史料)の豊富さも高岡城の大きな特徴です。
 築城当時(1609年)はまだ大坂に豊臣氏が健在であり、関ヶ原の戦い(1600年)以降、圧倒的に優勢ではありましたが徳川氏は未だ完全に天下を統一したわけではありませんでした。利長は父利家以来、豊臣氏に仕えてきており、その両者の間で板ばさみの苦しい状況にありました。利長は父利家の跡を受け、豊臣家五大老、及び豊臣秀頼の傅(ふ/もり)役でありながら、徳川氏に味方するという決断をくだしました。それを後押ししてくれた母芳春院(まつ)を江戸へ人質に出し、後継ぎの利光(のち利常)と家康の孫娘を結婚させ、加賀本藩は完全に「徳川大名」としたのです。しかし、自らは一線を引いて微妙な立場を保持し続けました。そこで、隠居城とはいえ有事に備えた実用的な自分の拠点を早急に持つ必要があったのです。
 そして利長は実際に富山城を凌ぐ堅固な高岡城を築きます。また金沢の利光の藩政を指導しつつも、絶大な権力を保持する「隠居政治」を展開していました(1611年まで)。


○高岡城の構造

 それでは、高岡城の構造を少し細かくみていきます。現在、高岡城の築城当時の絵図類は発見されておらず(慶長17年の年記をもつ写しは1点あり)、その全貌を明らかにすることはできませんが、現存している何種類かの城絵図などから推察していきます。
 関野(ヶ原)は広大な庄川扇状地の平野の裾にある高岡台地(標高15m前後/現在の高岡市街地)周辺のことで、高岡城はその小さな台地の北隅に築かれた平城です。防御力が低いといわれる平城の命は「堀」と「(土)塁」といえるでしょう。
 高岡城の最大の特徴は築城当初からほぼ完全に残る広大な水堀と郭(くるわ=城内の区画/曲輪)の形状にあるといえます。その保存率はおそらく日本一とみられます。このことは極めて稀であり、専門家から高い評価を受けています(富山県内で唯一「日本百名城」に認定され、また国指定史跡になっていることなどからうかがえます)。
 総面積217,694u(65,768坪)のうち、約37%にあたる81,071u(24,567坪)が人工の水堀なのです。そして、そこから掘り出された大量の土(粘土質)に人工的に礫(小石)を混ぜ、突き固めた厚い地盤(最大10m)が造成され、その周囲に土塁を築いて、5つの郭が造成されました。しかも、その人工的に作られた築城時の盛土のすぐ下は、縄文期の黒褐色の地層なのです。つまり、地盤造成前に一旦その縄文期の地層が見えるまで土を除けてから盛土がなされたのです。
 さらに、本丸北東の馬出状(小郭)になっている現在の梅林や、「御城外」といわれた小竹藪も同時に造成されており、その2つも郭に加え得るものと思われます。

 しかも注目すべきは、高岡城は全くの「無」から新たに作られたということです。城の多くは中世の砦なり城館なり何らかの拠点を拡張することが多いのですが、利長はわずか半年(実際の工事は5ヶ月程)で未完成ながら入城しています。普通よりも大きな労力がかかる、これだけの大工事を、しかも短期間に行っており、利長が高岡城にいかに大きな「投資」をしたか、つまり思い入れを持っていたかがうかがえます。

 高岡城は富山城の防御力を凌ぐとされます。また金沢城よりも総面積は小さくなっていますが、各々の郭は金沢城のそれよりも広く、さらに城の南西に伸びる台地には武家屋敷を配置して「升形の内」を建設し、また外郭予定地と思われる城の北西に伸びる島状の台地(現在は富山県立高岡工芸高校や高岡市美術館が建つ)も存在しています。利長は前田家の本城・金沢城の地勢上の不利(小立野台地側の弱点)を熟知していたはずであり、利長はここ高岡に富山城・金沢城を凌ぎ、「加賀藩公儀」を体現する壮大な構想を描いていたのかもしれません。

〔高岡古城模式図〕
高岡古城模式図
 それでは高岡城の郭の配置をみていきます。「本丸」の前後には「二の丸」と「小竹藪(御城外)」を、内堀をはさんで「鍛冶丸(枡形)」「明丸」「三の丸(民部丸/腰郭)」がいずれも一直線に並べられています。これをみると本丸の南東と南西側二面には曲輪が配置され、水堀が二重になっており守りは万全です。しかし、他の二面の堀は一重になっており、本丸がむき出しになっています。これは、当時城の北側の二面(現本丸町・広小路周辺)は広大な沼沢地(湶=あわら)が広がっており、あまり守りを考えなくてよかったからと思われます。高岡城は自然の地形をうまく利用しつつ、人工の力で防御力を最大限に引き出した城といえるでしょう。
 近年、古川知明氏により、高岡城は慶長期富山城と共に秀吉の京都の居館・聚楽第の系譜をひく「聚楽第型城郭」ではないかとの指摘もありました。また佐伯哲也氏は、複数の郭を土橋で繋げる「連続(重ね)馬出」であり、非常に高い防御力もっていると指摘されています。
 また千田嘉博氏は、二の丸・鍛冶丸、そして現在の梅林と三の丸も「馬出」とし(明丸は馬出見立ての郭)、「高岡城ほど理論的に馬出を使いこなし、純粋に城全体のプランに昇華させた城は、日本の近世城郭のなかでも唯一といえる」と高く評価されています。
 現在、高岡城は「堀(水濠)」と「郭(塁)」という“城の命”というべき遺構のほぼ全てが残っており、富山県内で唯一「日本百名城」に認定され、国史跡に指定されています。一般的な城のイメージ(天守閣や門、櫓など)をくつがえして、改めて「城の本質」とは何なのか考えさせられます。

 実際の建設にあたっては利長自身も積極的に関わり、資材調達を特命した小塚淡路や総奉行の神尾図書をはじめ、松平伯耆、稲垣与右衛門らに宛てられた書状が多数現存しており、盛んに指示を出しています(52通)。そのほとんどが築城の督促であり、利長の焦りに満ちた心情が察せられます(あまりに激しい督促のためか、完成していた本丸の石垣が崩れるという事故も発生したようです)。
 人員や経費は隠居中でありながら、前田家領全域(加越能三国)から人夫を約1万人徴集したとされており、領民にとっては厳しい負担となりました。彼らは農作業が遅れてしまうので人夫賃金にあたる「夫銀(ぶぎん)」の差し出しを条件として、労役免除を願い出ています。この制度は明治維新まで続きました。

 城内の建造物は『越登賀三州志』によれば、前田利家が豊臣秀吉から賜った伏見の豊臣秀次遺館の良材を用いて、殿閣が建てられたといいます。その他の建造物は不明ですが、各種史料から、本丸には材木蔵・番所・鷹部屋、「貫土橋」(車橋)や、二の丸に鈴木権之助(利長夫人付)屋敷と門と隅櫓2棟、三の丸には今枝民部直恒の屋敷などがあったことなどが記されています。
 発掘調査により、本丸から礎石が16個検出され、幅50m以上の規模をもつ御殿の存在が確認されました。
 本丸北隅に天守台らしき出っ張りがありますが、天守閣は未だなかったと思われます。築城3年後の年記をもつ「高岡御城景台之絵図」の天守台部分には「御材木御蔵」と書かれています。


○廃城後

 慶長14年(1614)の利長死後に起こった「大坂冬の陣」の際、高岡城には稲垣与右衛門が、同夏の陣の際は、岡嶋備中守一吉らが配置されましたが、豊臣氏滅亡後の慶長20年(1615)閏6月13日に徳川幕府は「一国一城令」を発し、高岡城も廃城となってしまいました(寛永15年(1638)説もある)。その際に城内の建造物などは破壊されたと思われ、現在当初の建造物はなく、一部の石垣や井戸がある程度です
 しかし、利長の跡を受けた3代利常(1593〜1658)は水堀を埋め立てませんでした。現在、高岡城跡(高岡古城公園)は全国的にも珍しい水濠公園としてその風情を伝えています。このことは、大坂城が堀を完全に埋められて、その防御力を全く失ったことからも分かるように、軍事拠点としての潜在能力はまだ健在で、高岡城は“生きていた”といえるのです。これは「武断政治」といわれる江戸時代初期の当時(島原の乱(1637年)以降は更に厳しく)、城の改修に難癖を付けられ、多数の大名が取り潰し(改易)や減封・転封になったことから見てもほとんど「奇跡的」といってもいい程です(それどころか利常は1639年、廃城となっていた小松城を自らの隠居城として幕府の許しを得て復活し、大改修を施しています)
 そして利常は城内に米や塩などの蔵を設置し、番人をおいて、一般の出入りを禁止しました。さらに城の大手口の前に現在の古定塚町から町屋を移転させ、見えないようにしたともされています。

 さらに利常は、利長33回忌の前年にあたる正保2年(1645)よりその菩提寺・瑞龍寺(国宝)を着工します(17年後の竣工面積は36,000坪)。そして翌年には、約872mにわたる八丁道という直線の参道で結ばれた先に、国史跡・前田利長墓所(面積10,000坪)を造営しました。瑞龍寺・利長墓所は往時は共に二重の水堀で囲われていました。この「瑞龍寺−八丁道−利長墓所」の造成は利常の利長への畏敬の念から発したものと思われますが、廃城後衰退しつつあった高岡復興政策の一環であり、かつ城の弱点であった南方を守る「防衛ライン」とも考えられます。
 高岡城の保存については、“鼻毛のエピソード”もある利常の深慮遠謀の遺志を、歴代の加賀藩主や藩士が懸命に守り抜いたことと察せられます。

 それ以降の高岡城は高岡町奉行の管理下におかれ、城址内には数棟の蔵などが建っていたようです。諸説がありはっきりはしませんが、本丸には「御収納米蔵」2棟、「御詰塩蔵」1棟、「御郡方作喰米蔵」1棟、「御本丸門」1棟、「番所」1棟が、二の丸には「番人御貸家」2棟、「矢来門」1棟、明丸には「鉄砲薬土蔵」1棟が、三の丸には「矢来(門)」1棟などがあったとされています。


○公園指定

 明治3年(1870)、金沢藩は高岡城跡の払い下げ開墾を布達(水堀の埋め立て禁止と原形の保存が条件)しますが、実現はしませんでした。しかし同5年(1872)、七尾県は払い下げを断行。その面積は水堀を除いた31,066坪で、落札者も決定します。地所は4,250円で伏木の藤井能三(『服部嘉十郎』によると「外百数十人」も加える)が、樹木は1,000円(『高岡史料』は「若干金」とする)で高岡の内嶋六平が落札します。その地所を落札者ごとに区分したと思われる絵図の写し(当館蔵)によると、のべ347名で81区画に区分されています。
 あわや開墾されようとした時、「俄然町民の世論が沸いて、熱烈な請願運動が展開された」(『高岡市史』下巻)とあります。その為かは不明ですが、実際に開墾は行われなかったといいます。
 翌明治6年(1873)1月、新政府は「太政官布達第十六号」を発布します。これは「古来から名所旧跡といわれるところは公園として申し出よ」というものです上野観光連盟公式サイト。また、翌7年7月、二上山麓に鎮座し古来より信仰を集める射水神社の本丸跡への遷座が決定します(翌年9月遷座)。
 それらが契機になったか、第十七大区区長・服部嘉十郎らは明治7年7月、「公園指定請願書」(写しは当館蔵)を新川県権令に提出します。それによると、落札者らは「自分等が入札に応じたのは、一つには懐古の情に出でたのだから、公園になるということならば、払下げを取消されても苦情は申さぬのみか、却って素志に適うものである」と言ったとあります(1895年に設立の「ナショナル・トラスト」運動に先駆する、というのは言い過ぎでしょうか)


○近代公園としての整備

 そして、同8年(1875)7月4日、高岡城跡は「高岡公園」となりました。それ以来、近代公園としての整備が開始されます。
 主な整備改修は、明治36年(1903)から同40年頃にかけて、京都の高名な庭師である「植治」の七代小川治兵衛の弟子・廣瀬萬次郎による改良設計、及び古城の滝造成など庭園の改築工事があります。
 そして、それを含む公園各所の改修があります。明治40年には「中の島」が造成されました。翌41年からは本格的に42年秋に決定した皇太子(大正天皇)行啓に際しての大改修が行われました。
 明治44年には、近代庭園の先駆者で、「祖庭」と号した長岡安平による改良設計がなされました(設計図と46点の部分図は当館蔵)。その提案は全ては実行されませんでしたが、高岡市の事務報告によると、桜・楓・梅・松の植樹や水亭・東屋や架橋などの造園に影響を与えたものと思われます。
 つまり、高岡古城公園は明治期、日本の東西を代表する造園家による関与があったのです。
 大正期以降は当時の市長・鳥山敬二郎の大きい尽力がありました。鳥山は明治初期に公園指定運動にも関与し、さらに公園に隣接していた桜馬場公園を自社で買い取り、のち市に寄付したほどの、大の公園愛護家でした。鳥山は大正2年(1913)、公園に専任の監視人を置き、市民に樹木の寄付を奨励、同7年には公園維持基金規定創設しました(同年、本丸に現存する瑞龍前田公遺徳碑を建立)。
 そして昭和26年(1951)の高岡産業博覧会に向けての大改修は、現在の高岡古城公園の原形をなしたものです。
 以上、高岡城跡は近代公園としての歴史も古く、その過程をたどれる貴重な遺産でもあるのです。






○高岡城関係資料

 「高岡城」があった時代の絵図面は前述の通り未発見ですが、江戸時代には高岡町奉行などが何種類かの絵図を作成しています。
 ここには現時点で確認しうる限りの(不十分なものですが)関係資料を紹介します。


1.城絵図

No年 代名   称所   蔵備         考類型
文政13年
(1830)編集
高岡城之図金沢市立玉川図書館
近世史料館(加越能文庫)
高岡古城図の基本史料。
江戸前期(有沢作図、下段)・中期(小川原図、上段)・
後期(小堀提出図、中段)の3種類の絵図の写し
A+B+C
 越中高岡古城図有沢永貞編。永貞(1638-1715)は加賀藩を代表する兵学者・絵図作者
 高岡旧城図小堀提出図と同じく堀を主にしたもの。手写。彩色
 越中高岡古城図小川図と同系。手写
 多可遠哥(たかおか)城図前田貞醇旧蔵品。裏の貼付付箋「多可遠哥城図麁(粗)図」。手写
 越中高岡古城図「大図」小川図と同系
 越中高岡古城図「小図」No.5「多可遠哥城図」と同系
文政4年
(1821)
高岡古御城之図前田貞醇旧蔵品。文政4年6月の高岡大火(1821)後の見分役人が作成した絵図を、同年冬に津田宇兵衛より借り写したもの。
城址内の各蔵の図も記す。手写。彩色
明治期(原本は享和
元年(1801)頃編集)
高岡城并瑞龍寺図富田景周著『高岡山瑞龍閣記』の附属図。瑞龍寺図と高岡古城図3図が1図になっている。No.1「高岡城之図」の原図と考えられるA+B+C
10天保4年
(1833)
高岡御城三城絵図
(大友文庫)
佐藤元知写。原図はNo.1「高岡城之図」A+B+C
11江戸後期高岡古城図高岡市立中央図書館小堀図と同系。手写
12昭和7年(1932)写高岡御城景台之絵図(写)高岡市(原本・高岡市立
中央図書館)
原本(下記)を図書館で発見!慶長17年(1612)に写されたものと記され、高岡城最古の絵図となる。手写
13 高岡御城景台之絵図高岡市立中央図書館
(関忠五郎氏旧蔵)
上記資料の原本
14寛政12年
(1800)
越中高岡古城址ノ図石川県立図書館
(森田文庫)
加賀藩士・田辺政己の手写。上段に高岡古城についての概説(「高岡御城地」)あり
15 越中高岡古城跡ノ図No.1「高岡城之図」の下段の有沢図のみの写し。「原本前田家」とある
16 越中 高岡広島市立中央図書館
(浅野文庫)
「浅野文庫 諸国古城之図」の内。「浅野文庫」とは旧広島藩主・浅野家、同家老・上田家両家旧蔵の和漢書群
※「類型」は、
 A=小川八左衛門原図(No.1「高岡城之図」の上段。江戸中期)
 B=小堀金五右衛門提出図(上記資料の中段)
 C=有沢永貞作製図(上記資料の下段)
 D=それ以外
を表しています。





2.古文書

No年 代名  称所  蔵備    考
〔慶長14年(1609)〕
4月6日
徳川家康書状
(前田利長宛)
(『大日本史料』
第十二編之六等所収)
富山大火の火事見舞いと、新城地は「何方にても其方次第」と許可。使者は宮崎蔵人
(同年)
4月12日
前田利長書状
(小塚淡路秀正宛)
木町神社「木町文書」内。上記の使者が帰り次第、まず最初に木町に土地・屋敷を与える旨。高岡市指定文化財
(同年)
4月16日
篠原一孝等連署状
(中条村又右衛門宛)
個人蔵加賀藩家老の篠原出羽守一孝・横山山城守長知・奥村伊予守永福の連署。築城人夫についての申し付け
(同年)
4月22日
前田利長書状
(神尾図書之直・
稲垣与三右衛門宛)
(『大日本史料』
第十二編之六等所収)
新城や町割りの絵図についての指示
(同年)
5月17日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
前田育徳会
(尊経閣文庫)
新城の地鎮祭を倶利伽羅明王院に命じてとり行なったことを母芳春院(まつ)に伝えさせている
(同年)
6月9日
前田利長書状
(山崎長門守長徳宛)
(『高岡史料』
上巻所収)
高岡築城工事の進捗状況の報告と、贈り物に対するお礼など
(同年)
7月2日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
前田育徳会
(尊経閣文庫)
神尾図書之直と並ぶ利長の側近・松平伯耆康定の高岡の屋敷について
(同年)
8月3日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
築城工事は仕上げの段階だが、修理している「しん丸」のまだ出来ていない所を平夫(無償の強制労働)をもってしてもやり遂げるように指示
(同年)
8月5日
前田利長書状
(松平伯耆康定・
神尾図書之直宛)
入城(移徒=わたまし)予定日や行程について
10(同年)
8月8日
前田利長書状
(松平伯耆康定・
神尾図書之直宛)
築城工事が遅延しているので入城予定日を延期するなど
11(同年)
8月8日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
入城予定日について
12(同年)
8月13日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
築城工事が遅延しているので催促している
13(同年)
8月15日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
入城日は吉日の9月13日に決定したので、その準備の指示
14(同年)
8月22日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
(『高岡史料』
上巻等所収)
高岡では知行の多い家臣ほど城に近く屋敷を建てよと指示
15(同年)
8月26日
前田利長書状
(神尾図書之直・
松平伯耆康定宛)
前田育徳会
(尊経閣文庫)
本丸の石垣が崩れてしまったが、取りあえず作事(建築)さえ終わればよい
16(同年)
9月5日
前田利長書状
(松平伯耆康定・
神尾図書之直宛)
入城日は決定し、工事も目途がたったので、加賀よりの人足を帰国させている。しかし3分の1は残すように指示
17(同年)
9月8日
前田利長書状
(神尾図書之直・
稲垣與三衛門宛)
9月8日に勝手方(広間・台所等)は完成したが、城中に屋敷を与えた人の塀・土居がまだなので、せめて台所までの道を早くするように指示
18(同年)
9月11日
前田利長書状
(松平伯耆康定・
神尾図書之直宛)
(『高岡市史』
上巻等所収)
入城は明後日だというのに女乗物がまだ届いてないので、明日までに用意するように指示
19(同年)
9月14日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
前田育徳会
(尊経閣文庫)
二の丸の門や櫓の増築を御大工・橋本惣右衛門に命令してあり、それ以外の工事はない。献上された魚は図書に与える
20(同年)
10月26日
前田利長書状
(駒井中務少輔守勝宛)
高岡城の詰夫(つめぶ=夫役の一種。農民から徴集され雑事にあたる)についての細かい指示。駒井守勝も利長の側近
21慶長14〜15年(1609〜10)頃
11月24日
前田利長書状
(小塚淡路秀正宛)
木町神社「木町文書」内。木町の船着場施設(柵=しがらみ)の材木代金の支払い状。高岡市指定文化財
22慶長16年(1611)
8月25日
前田利長書状
(村々肝煎中宛)
金沢市立玉川図書館
近世史料館
(加越能文庫)
城内の畳92畳分の割付け状
23慶長17年(1612)
3月29日
前田利長書状
(近所村々百姓中宛)
城内書院の廊下用の畳の菰(こも)57畳分の割付け状
24慶長15〜19年(1610〜14)頃〕
4月3日
前田利長書状
(種村肖椎寺宛)
小松市立博物館病気見舞いの礼状。城門建設工事のため仮小屋をかけたという記述あり




3.古記録

No年 代名  称所  蔵備    考
宝永年間(1704-11)編纂〕『三壺記』金沢市立玉川図書館
近世史料館
『三壺聞書』とも。加賀藩宰領足軽山田四郎右衛門の編纂。鎌倉・室町の簡単な記述から、前田利常薨去まで記されている。高岡城関係の記事もある。改題本の『新山田畔書』(元禄9年今枝直方編)にも関係記事あり
江戸期『木町委細帳面』木町神社「木町文書」内。高岡城や城下町の建設資材の搬入口・木町についての記録。高岡新城決定についての記事など。
 『金屋本江村旧記 全』富山大学附属図書館
(菊池文書)
砺波郡金屋本江村(現小矢部市)の役家(役銀徴集対象の百姓家)を7軒と読んでいる記事→高岡築城の夫役の関連と考えられる
宝永2年(1705)『御領内古城略志』 加賀藩家老・今枝直方著。藩内の城址について記す
寛保3年(1743)と推定『不歩記』金沢市立玉川図書館(加越能文庫)
(写本は高岡市立中央図書館)
編者は高岡町肝煎・三木屋半左衛門と推定。高岡の沿革や城址の記事など。江戸期高岡の基本史料
明和8年(1771)『越中国高岡町図之弁』高岡市立中央図書館高岡町奉行・小川八左衛門安村著。藩へ提出した高岡町図に付したもの。高岡町の基本書の一つ。最後に「城地得失考」を載せる
寛政11年(1799)『高岡山瑞龍閣記』瑞龍寺加賀藩士で郷土史家の富田景周が利長の菩提寺の瑞龍寺16世・霊源活湛の求めに応じ著す。利長の略歴や瑞龍寺の歴史など。
文政2年(1819)までに成立『越登賀三州志』金沢市立玉川図書館
近世史料館
(加越能文庫)
富田景周著。通称『三州志』。6部39巻からなる加賀及び加賀藩の膨大な歴史・地理書。「古墟考」には高岡城関連記事が多い
江戸中期『菅君雑録』五高畠定延編。高岡築城関連の記事あり
10安政6年(1859)『高府安政録』高岡市立中央図書館高岡町役人・中条屋六郎右衛門(川上三六)著。高岡開始からの歴史書。
11 『関氏旧記』関忠五郎氏現物は未確認だが、高岡城のことが詳しく記されているという。『高岡市史』などに一部掲載。同じく関氏所蔵の「1.城絵図/No.12/高岡御城景台之絵図(写)」にその存在が記載
12 『瑞龍院様高岡ニ御築城ノ件』高岡市立中央図書館本丸の天守台や角櫓跡から伏木湊に出入りする船の帆形が見えたなどの記述。『伊東氏旧記』とも。
13明治20年(1887)『温故集録』金沢市立玉川図書館
近世史料館
(森田文庫)
森田柿園編。高岡城の地鎮祭は僧侶にさせたと聞いた江戸の芳春院が、陰陽師・吉田右衛門にさせるため高岡へ派遣したという覚書を収録
14 『射水郡分記録等抜書』塚本幸史氏中川庄右衛門の控え。高岡城についてのかなり詳細な記録。高山右近だけではなく山崎閑斎(長徳)も縄張したなどと記載
(古記録については代表的なもののみあげてあります)


【主要参考文献】
・『高岡市史』上・中巻、同編纂委員会、高岡市・青林書院、1959・63年
・『富山県史』史料・通史編V 近世上、富山県、1980・82年
高岡市古書古文献シリーズ第五集『高岡古城志』(復刻版)増山安太郎著、高岡市立中央図書館(高岡文化会)、1999(1939)年
・「高岡城」塩照夫著(日本城郭史研究叢書第五巻『金沢城と前田氏領内の諸城』木内敏編、名著出版、1985年所収)
高岡市市制一〇〇年記念誌『たかおか−歴史との出会い−』同編集委員会、高岡市、1991年
・高岡市立博物館開館二十周年記念特別展『前田利長展』高岡市立博物館、1990年
・日本歴史地名大系第一六巻『富山県の地名』平凡社地方資料センター、平凡社、1994年
・木越隆三『日本近世の村夫役と領主のつとめ』校倉書房、2008年
・『越中たかおかふるさと誌料抄』高岡市児童文化協会、1990年
・『石川県大百科事典』北國新聞社出版局、1993年
・「慶長期富山城内郭の系譜 −越中における聚楽第型城郭の成立と展開−」など、古川知明氏の『富山史壇』149〜153号(2006〜07年)所収の富山城についての諸論考
・古川知明『富山城の縄張と城下町の構造』桂書房、2014年
・佐伯哲也「越中高岡城の縄張りについて」(『愛城研報告』第11号、愛知中世城郭研究会、2007.8)
・『富山県高岡市 高岡城跡詳細調査報告書』高岡市教育委員会、2013年
・仁ヶ竹亮介「高山右近による高岡城縄張伝承の検討」『高山右近 キリシタン大名への新視点』中西裕樹監修、宮帯出版社、2014年
・萩原大輔「前田利長隠居政治の構造と展開」『富山史壇』第178号、2015年12月 ほか


※文責:主査学芸員・仁ヶ竹亮介







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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年11月3日