高岡城

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高岡古城公園〔高岡古城公園〕
高岡城跡は明治8年(1875)に公園として開放されて以来、市民の憩いの場となっています。
公園内の下(南)方が高岡市立博物館。上(北)方に見えるのが二上山(守山城跡)です。





○高岡城の概要

 現在の高岡古城公園(富山県高岡市古城)一帯にあった高岡城は加賀前田家2代・前田利長(1562-1614)の隠居城として、慶長14年(1609)に築かれました。
 利長は前田家の領国である加賀・能登・越中(現在の石川・富山両県)の政治・軍事・経済的な中心地である、越中射水郡関野に目を付け築城しました。この地は周辺の守山・富山・増山・阿尾などの諸城と連携を取れば防御網の中心になり得、さらに千保川(現在の庄川の本流)・小矢部川の舟運により、後背地となる砺波・射水両平野の穀倉地帯や、外港となる伏木・放生津と密接に結ばれていたのです。
 利長のその選地のうまさについては、後の江戸時代中期に(1764〜80年)高岡町奉行を勤めた小川八左衛門はその著書のなかで、高岡が城地として江戸・大坂をしのぎ、「天下ノ座城トモ可成(なるべき)」と(多分に自画自賛ですが)絶賛しています(「城地得失之考」『高岡町図之弁』所収)。
 もっとも高岡への移転・築城は、利長の居城であった富山城が炎上したことによる、偶然という側面もあります。しかし、利長は(城地選定を富田越後と神尾図書に任せてはいますが)天正13年(1585)から慶長2年(1597)までの約13年間、近くの二上山の守山城主であった経験があり、もしかしたらその頃からこの関野の地の利点に目を付けていた可能性もあるかもしれません。

 設計(縄張)は築城の名手といわれた高山右近の手になるといわれています〔長如庵(連龍)や山崎閑斎(長徳)も加わったとする説もある〕。
 しかし、最近の研究では利長自らが縄張をした可能性が指摘されています。築城及び城下町造成に関する利長の書状が約20通も残っており、利長自らが積極的に指示したことが分かっています。
 築城当時(1609年)はまだ大坂に豊臣氏が健在であり、関ヶ原の戦い(1600年)以降、圧倒的に優勢ではありましたが徳川氏は未だ完全に天下を統一したわけではありませんでした。利長は父利家以来、豊臣氏に仕えてきており、その両者の間で板ばさみの苦しい状況にありました。利長は父利家の跡を受け、豊臣家五大老、及び豊臣秀頼の傅(ふ/もり)役でありながら、徳川氏に味方するという決断をくだしました。それを後押ししてくれた母芳春院(まつ)を江戸へ人質に出し、後継ぎの利光(のち利常)と家康の孫娘を結婚させ、加賀本藩は完全に「徳川大名」としたのです。しかし、自らは一線を引いて微妙な立場を保持し続けました。そこで、隠居城とはいえ有事に備えた実用的な自分の拠点を早急に持つ必要があったのです。


○高岡城の構造

 それでは、高岡城の構造を少し細かくみていきます。現在、高岡城の築城当時の絵図類は発見されておらず、その全貌を明らかにすることはできませんが、現存している何種類かの城絵図などから推察していきます。
 関野(ヶ原)は広大な庄川扇状地の平野の裾にある高岡台地(標高15m前後/現在の高岡市街地)周辺のことで、高岡城はその小さな台地の北隅に築かれた平城です。防御力が低いといわれる平城の命は「堀」と「(土)塁」といえるでしょう。
 高岡城の特徴は築城当初から残る広大な水濠にあるといえます。総面積約21万u(71,261坪)のうち、約3割(24,400坪)が人工の堀(水濠)なのです。そして、そこから掘り出された大量の土で土塁を築き、5つの郭(くるわ=城内の区画/曲輪)を造成しました。それに、本丸北東の馬出状(小郭)になっている現在の梅林や、「御城外」といわれた小竹藪も同時に造成され、その2つも郭に加え得るものと思われます。

 しかも注目すべきは、高岡城は全くの「無」から新たに作られたということです。城の多くは中世の砦なり城館なり何らかの拠点を拡張することが多いのですが、利長はわずか半年(実際の工事は3ヶ月程)で未完成ながら入城しています。普通よりも大きな労力がかかる、これだけの大工事を、しかも短期間に行っており、利長が高岡城にいかに大きな「投資」をしたか、つまり思い入れを持っていたかがうかがえます。
 高岡城は金沢城よりも総面積は小さくなっていますが、各々の郭は金沢城のそれよりも広く、さらに外郭予定地と思われる台地(現在は富山県立高岡工芸高校や高岡市美術館が建つ)も存在しています。利長は前田家の本城・金沢城の地勢上の不利(小立野台地側の弱点)を熟知していたはずであり、利長はここ高岡に金沢を凌ぐ、壮大な構想を描いていたのかもしれません。

〔高岡古城模式図〕
高岡古城模式図
 高岡城の郭の配置は、平城の基本形で数も一番多い「輪(環)郭式(本丸を中心に円形または矩形状に、二の丸、三の丸と囲まれた配置。大坂城、広島城など)」でも、「渦郭式(かかくしき=本丸を中心として二の丸、三の丸を渦巻き状に配置。江戸城、金沢城など)」でもないものです。
 高岡城の「本丸」の前後には「二の丸」と「小竹藪(御城外)」を、内堀をはさんで「鍛冶丸(枡形)」「明き丸」「三の丸(民部丸)」がいずれも一直線に並べられています。これをみると本丸の南東(現中川上・本町方面)と南西(現大手町方面)側二面には曲輪が配置され、水濠が二重になっており守りは万全です。しかし、他の二面の堀は一重になっており、本丸がむき出しになっています。これは、当時城の北側の二面(現本丸町・広小路周辺)は広大な沼沢地(湶=あわら)や沼田が広がっており、あまり守りを考えなくてよかったからと思われます。高岡城は自然の地形をうまく利用しつつ、人工の力で防御力を最大限に引き出した城といえるでしょう。
 近年、中井均氏や古川知明氏らにより、高岡城は慶長期富山城と共に秀吉の京都の居館・聚楽第の系譜をひく「聚楽第型城郭」ではないかとの指摘もありました。また佐伯哲也氏は、複数の郭を土橋で繋げる「連続(重ね)馬出」であり、非常に高い防御力もっていると指摘されています。
 現在、高岡城は「堀(水濠)」と「郭(塁)」という“城の命”というべき遺構のほぼ全てが残っており、富山県内で唯一「日本百名城」に認定されています。一般的な城のイメージ(天守閣や門、櫓など)をくつがえして、改めて「城の本質」とは何なのか考えさせられます。

 実際の建設にあたっては利長自身も積極的に関わり、資材調達を特命した小塚淡路や現地奉行の神尾図書、松平伯耆、稲垣与右衛門らに宛てられた書状が多数現存しており、盛んに指示を出しています。そのほとんどが築城の督促であり、利長の焦りに満ちた心情が察せられます(あまりに激しい督促のためか、完成していた本丸の石垣が崩れるという事故も発生したようです)。
 人員や経費は加越能三国から徴集したので、領民にとっては厳しい負担となりました。彼らは農作業が遅れてしまうので人夫賃金にあたる「夫銀(ぶぎん)」の差し出しを条件として、労役免除を願い出ています。この制度は明治維新まで続きました。

 城内の建造物は『越登賀三州志』によれば、前田利家が豊臣秀吉から賜った伏見の豊臣秀次遺館の良材を用いて、殿閣が建てられたといいます。その他の建造物は不明ですが、各種史料から、本丸には材木蔵・番所・鷹部屋、「貫土橋」(車橋)や、二の丸に鈴木権之助(利長夫人付)屋敷と門と隅櫓2棟、三の丸には今枝民部直恒の屋敷などがあったことなどが記されています。
 本丸北隅に天守台らしき出っ張りがありますが、天守閣は未だなかったと思われます。築城3年後の年記をもつ「高岡御城景台之絵図」の天守台部分には「御材木御蔵」と書かれています。


○廃城後

 慶長14年(1614)の利長死後に起こった「大坂冬の陣」の際、高岡城には稲垣与右衛門が、同夏の陣の際は、岡嶋備中守一吉らが配置されましたが、豊臣氏滅亡後の元和元年(1615)に徳川幕府は「一国一城令」を発し、高岡城も廃城となってしまいました(寛永15年(1638)説もある)。その際に城内の建造物などは破壊されたと思われ、現在当初の建造物はなく、一部の石垣や井戸がある程度です
 しかし、利長の跡を受けた3代利常(1593〜1658)は水濠を埋め立てませんでした。現在、高岡城跡(高岡古城公園)は全国的にも珍しい水濠公園としてその風情を伝えています。このことは、大坂城が堀を完全に埋められて、その防御力を全く失ったことからも分かるように、軍事拠点としての潜在能力はまだ健在で、高岡城は“生きていた”といえるのです。これは「武断政治」といわれる江戸時代初期の当時(島原の乱(1637年)以降は更に厳しく)、城の改修に難癖を付けられ、多数の大名が取り潰し(改易)や減封・転封になったことから見てもほとんど「奇跡的」といってもいい程です。
 そして利常は城内に米や塩などの蔵を設置し、番人をおいて、城内に一般の出入りを禁止しました。さらに城の大手口に現在の古定塚町から町屋を移転させ、見えないようにしたともされています。高岡城の保存については「鼻毛のエピソード」もある利常をはじめ、歴代の加賀藩主や藩士の懸命の努力があったことと察せられます。

 それ以降の高岡城は高岡町奉行の管理下におかれ、城址内には数棟の蔵などが建っていたようです。諸説がありはっきりはしませんが、本丸には「御収納米蔵二棟」「御詰塩蔵一棟」「御郡方作喰米蔵一棟」「御本丸門一棟」「番所一棟」が、二の丸には「番人御貸家二棟」「矢来門一棟」、明丸には「火薬庫一棟」が、三の丸には「矢来門一棟」などがあったとされています。


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○高岡城関係資料

 「高岡城」があった時代の絵図面は前述の通り未発見ですが、江戸時代には高岡町奉行などが何種類かの絵図を作成しています。
 ここには現時点で確認しうる限りの(不十分なものですが)関係資料を紹介します。


1.城絵図

No年 代名   称所   蔵備         考類型
文政13年
(1830)編集
高岡城之図金沢市立玉川図書館
近世史料館(加越能文庫)
高岡古城図の基本史料。
江戸前期(有沢作図、下段)・中期(小川原図、上段)・
後期(小堀提出図、中段)の3種類の絵図の写し
A+B+C
 越中高岡古城図有沢永貞編。永貞(1638-1715)は加賀藩を代表する兵学者・絵図作者
 高岡旧城図小堀提出図と同じく堀を主にしたもの。手写。彩色
 越中高岡古城図小川図と同系。手写
 多可遠哥(たかおか)城図前田貞醇旧蔵品。裏の貼付付箋「多可遠哥城図麁(粗)図」。手写
 越中高岡古城図「大図」小川図と同系
 越中高岡古城図「小図」No.5「多可遠哥城図」と同系
文政4年
(1821)
高岡古御城之図前田貞醇旧蔵品。文政4年6月の高岡大火(1821)後の見分役人が作成した絵図を、同年冬に津田宇兵衛より借り写したもの。
城址内の各蔵の図も記す。手写。彩色
明治期(原本は享和
元年(1801)頃編集)
高岡城并瑞龍寺図富田景周著『高岡山瑞龍閣記』の附属図。瑞龍寺図と高岡古城図3図が1図になっている。No.1「高岡城之図」の原図と考えられるA+B+C
10天保4年
(1833)
高岡御城三城絵図
(大友文庫)
佐藤元知写。原図はNo.1「高岡城之図」A+B+C
11江戸後期高岡古城図高岡市立中央図書館小堀図と同系。手写
12昭和7年(1932)写高岡御城景台之絵図(写)高岡市(原本・高岡市立
中央図書館)
原本(下記)を図書館で発見!慶長17年(1612)に写されたものと記され、高岡城最古の絵図となる。手写
13 高岡御城景台之絵図高岡市立中央図書館
(関忠五郎氏旧蔵)
上記資料の原本
14寛政12年
(1800)
越中高岡古城址ノ図石川県立図書館
(森田文庫)
加賀藩士・田辺政己の手写。上段に高岡古城についての概説(「高岡御城地」)あり
15 越中高岡古城跡ノ図No.1「高岡城之図」の下段の有沢図のみの写し。「原本前田家」とある
16 越中 高岡広島市立中央図書館
(浅野文庫)
「浅野文庫 諸国古城之図」の内。「浅野文庫」とは旧広島藩主・浅野家、同家老・上田家両家旧蔵の和漢書群
※「類型」は、
 A=小川八左衛門原図(No.1「高岡城之図」の上段。江戸中期)
 B=小堀金五右衛門提出図(上記資料の中段)
 C=有沢永貞作製図(上記資料の下段)
 D=それ以外
を表しています。




2.古文書

No年 代名  称所  蔵備    考
〔慶長14年(1609)〕
4月6日
徳川家康書状
(前田利長宛)
(『大日本史料』
第十二編之六等所収)
富山大火の火事見舞いと、新城地は「何方にても其方次第」と許可。使者は宮崎蔵人
(同年)
4月12日
前田利長書状
(小塚淡路秀正宛)
木町神社「木町文書」内。上記の使者が帰り次第、まず最初に木町に土地・屋敷を与える旨。高岡市指定文化財
(同年)
4月16日
篠原一孝等連署状
(中条村又右衛門宛)
個人蔵加賀藩家老の篠原出羽守一孝・横山山城守長知・奥村伊予守永福の連署。築城人夫についての申し付け
(同年)
4月22日
前田利長書状
(神尾図書之直・
稲垣与三右衛門宛)
(『大日本史料』
第十二編之六等所収)
新城や町割りの絵図についての指示
(同年)
5月17日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
前田育徳会
(尊経閣文庫)
新城の地鎮祭を倶利伽羅明王院に命じてとり行なったことを母芳春院(まつ)に伝えさせている
(同年)
6月9日
前田利長書状
(山崎長門守長徳宛)
(『高岡史料』
上巻所収)
高岡築城工事の進捗状況の報告と、贈り物に対するお礼など
(同年)
7月2日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
前田育徳会
(尊経閣文庫)
神尾図書之直と並ぶ利長の側近・松平伯耆康定の高岡の屋敷について
(同年)
8月3日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
築城工事は仕上げの段階だが、修理している「しん丸」のまだ出来ていない所を平夫(無償の強制労働)をもってしてもやり遂げるように指示
(同年)
8月5日
前田利長書状
(松平伯耆康定・
神尾図書之直宛)
入城(移徒=わたまし)予定日や行程について
10(同年)
8月8日
前田利長書状
(松平伯耆康定・
神尾図書之直宛)
築城工事が遅延しているので入城予定日を延期するなど
11(同年)
8月8日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
入城予定日について
12(同年)
8月13日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
築城工事が遅延しているので催促している
13(同年)
8月15日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
入城日は吉日の9月13日に決定したので、その準備の指示
14(同年)
8月22日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
(『高岡史料』
上巻等所収)
高岡では知行の多い家臣ほど城に近く屋敷を建てよと指示
15(同年)
8月26日
前田利長書状
(神尾図書之直・
松平伯耆康定宛)
前田育徳会
(尊経閣文庫)
本丸の石垣が崩れてしまったが、取りあえず作事(建築)さえ終わればよい
16(同年)
9月5日
前田利長書状
(松平伯耆康定・
神尾図書之直宛)
入城日は決定し、工事も目途がたったので、加賀よりの人足を帰国させている。しかし3分の1は残すように指示
17(同年)
9月8日
前田利長書状
(神尾図書之直・
稲垣與三衛門宛)
9月8日に勝手方(広間・台所等)は完成したが、城中に屋敷を与えた人の塀・土居がまだなので、せめて台所までの道を早くするように指示
18(同年)
9月11日
前田利長書状
(松平伯耆康定・
神尾図書之直宛)
(『高岡市史』
上巻等所収)
入城は明後日だというのに女乗物がまだ届いてないので、明日までに用意するように指示
19(同年)
9月14日
前田利長書状
(神尾図書之直宛)
前田育徳会
(尊経閣文庫)
二の丸の門や櫓の増築を御大工・橋本惣右衛門に命令してあり、それ以外の工事はない。献上された魚は図書に与える
20(同年)
10月26日
前田利長書状
(駒井中務少輔守勝宛)
高岡城の詰夫(つめぶ=夫役の一種。農民から徴集され雑事にあたる)についての細かい指示。駒井守勝も利長の側近
21慶長14〜15年(1609〜10)頃
11月24日
前田利長書状
(小塚淡路秀正宛)
木町神社「木町文書」内。木町の船着場施設(柵=しがらみ)の材木代金の支払い状。高岡市指定文化財
22慶長16年(1611)
8月25日
前田利長書状
(村々肝煎中宛)
金沢市立玉川図書館
近世史料館
(加越能文庫)
城内の畳92畳分の割付け状
23慶長17年(1612)
3月29日
前田利長書状
(近所村々百姓中宛)
城内書院の廊下用の畳の菰(こも)57畳分の割付け状
24慶長15〜19年(1610〜14)頃〕
4月3日
前田利長書状
(種村肖椎寺宛)
小松市立博物館病気見舞いの礼状。城門建設工事のため仮小屋をかけたという記述あり




3.古記録

No年 代名  称所  蔵備    考
宝永年間(1704-11)編纂〕『三壺記』金沢市立玉川図書館
近世史料館
『三壺聞書』とも。加賀藩宰領足軽山田四郎右衛門の編纂。鎌倉・室町の簡単な記述から、前田利常薨去まで記されている。高岡城関係の記事もある。改題本の『新山田畔書』(元禄9年今枝直方編)にも関係記事あり
江戸期『木町委細帳面』木町神社「木町文書」内。高岡城や城下町の建設資材の搬入口・木町についての記録。高岡新城決定についての記事など。
 『金屋本江村旧記 全』富山大学附属図書館
(菊池文書)
砺波郡金屋本江村(現小矢部市)の役家(役銀徴集対象の百姓家)を7軒と読んでいる記事→高岡築城の夫役の関連と考えられる
宝永2年(1705)『御領内古城略志』 加賀藩家老・今枝直方著。藩内の城址について記す
寛保3年(1743)と推定『不歩記』金沢市立玉川図書館(加越能文庫)
(写本は高岡市立中央図書館)
編者は高岡町肝煎・三木屋半左衛門と推定。高岡の沿革や城址の記事など。江戸期高岡の基本史料
明和8年(1771)『越中国高岡町図之弁』高岡市立中央図書館高岡町奉行・小川八左衛門安村著。藩へ提出した高岡町図に付したもの。高岡町の基本書の一つ。最後に「城地得失考」を載せる
寛政11年(1799)『高岡山瑞龍閣記』瑞龍寺加賀藩士で郷土史家の富田景周が利長の菩提寺の瑞龍寺16世・霊源活湛の求めに応じ著す。利長の略歴や瑞龍寺の歴史など。
文政2年(1819)までに成立『越登賀三州志』金沢市立玉川図書館
近世史料館
(加越能文庫)
富田景周著。通称『三州志』。6部39巻からなる加賀及び加賀藩の膨大な歴史・地理書。「古墟考」には高岡城関連記事が多い
江戸中期『菅君雑録』五高畠定延編。高岡築城関連の記事あり
10安政6年(1859)『高府安政録』高岡市立中央図書館高岡町役人・中条屋六郎右衛門(川上三六)著。高岡開始からの歴史書。
11 『関氏旧記』関忠五郎氏現物は未確認だが、高岡城のことが詳しく記されているという。『高岡市史』などに一部掲載。同じく関氏所蔵の「1.城絵図/No.12/高岡御城景台之絵図(写)」にその存在が記載
12 『瑞龍院様高岡ニ御築城ノ件』高岡市立中央図書館本丸の天守台や角櫓跡から伏木湊に出入りする船の帆形が見えたなどの記述。『伊東氏旧記』とも。
13明治20年(1887)『温故集録』金沢市立玉川図書館
近世史料館
(森田文庫)
森田柿園編。高岡城の地鎮祭は僧侶にさせたと聞いた江戸の芳春院が、陰陽師・吉田右衛門にさせるため高岡へ派遣したという覚書を収録
14 『射水郡分記録等抜書』塚本幸史氏中川庄右衛門の控え。高岡城についてのかなり詳細な記録。高山右近だけではなく山崎閑斎(長徳)も縄張したなどと記載
(古記録については代表的なもののみあげてあります)



【主要参考文献】
・『高岡市史』上・中巻,同編纂委員会編集,高岡市・青林書院発行,1959・63年
・『富山県史』史料・通史編V 近世上,富山県編集・発行,1980・82年
・高岡市古書古文献シリーズ第五集『高岡古城志』(復刻版)増山安太郎著、高岡市立中央図書館(高岡文化会)発行,1999(1939)年
・「高岡城」塩照夫著(日本城郭史研究叢書第五巻『金沢城と前田氏領内の諸城』木内敏編,名著出版発行,1985年所収)
・高岡市市制一〇〇年記念誌『たかおか−歴史との出会い−』同編集委員会編集,高岡市発行,1991年
・『加越能近世史研究必携』田川捷一編著,北國新聞社発行,1995年
・高岡市立博物館開館二十周年記念特別展『前田利長展』当館編集・発行,1990年
・日本歴史地名大系第一六巻『富山県の地名』平凡社地方資料センター編集,平凡社発行,1994年
・『越中たかおかふるさと誌料抄』高岡市児童文化協会編集・発行,1990年
・『石川県大百科事典』北國新聞社出版局編集,同社発行,1993年
・「慶長期富山城内郭の系譜 −越中における聚楽第型城郭の成立と展開−」など、古川知明氏の『富山史壇』149〜153号(2006〜07年)所収の富山城についての緒論考
・佐伯哲也「越中高岡城の縄張りについて」(『愛城研報告』第11号、愛知中世城郭研究会、2007.8)
ほか

※文責:学芸員・仁ヶ竹亮介





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