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高岡城関係資料 徳川家康書状写(前田利長宛)


徳川家康書状写(前田利長宛)


〔翻刻(ほんこく)〕
「不慮之火事出来候而居城悉焼失之由不及是非候居城普請之義何方にても其方次第候御気遣有之間敷候定而将軍より右之分にて可有之候爰許も火事之時分取乱候間其地之義推量申候 謹言/卯月六日  家康 御判/越中中納言殿」


〔読み下し〕
「不慮の火事出来(しゅったい)候(そうろう)て、居城悉(ことごとく)焼失の由(よし)是非に及ばず候、居城普請の義、何方(いづかた)にても其の方次第候、御気遣これある間敷(まじく)候、定て将軍より右の分にて、これあるべく候、爰許(ここもと)も火事の時分取り乱し候間(あいだ)、其の地の義推量申し候、謹言/卯月六日 (徳川)家康/越中中納言(=前田利長)殿」


 【年代】慶長14年(1609)4月6日
 【法量】
 【所蔵】(『大日本史料』第十二編之六等所収)



 これは慶長14年(1609)4月6日付の書状で、駿府にいる大御所・徳川家康から魚津の利長に宛てられた火事見舞い状である。富山大火は同年の3月18日に起こったので、それから約半月後の史料である。
 その大意は「不慮の富山大火が起こって、居城も悉く焼失したそうですが、それはやむを得ないことでございます。新城建築の場所については、どこでもあなた次第でございますので、お気遣いはしないでください。江戸の将軍(秀忠)にも必ずその様にさせます。私(家康)も火事が起こった時は取り乱して、富山のことを心配していました」と火事の丁寧なお見舞い状である。
 また、新城地については「何方にても其方次第候、御気遣有之間敷」と太っ腹なところを見せ付けている。そして文末の大げさな程の心配する様は、“狸親父”といわれた、いかにも家康らしいところを感じさせる。
 使者の宮崎蔵人(大小将組・1200石)は魚津−駿府間を僅か11日間で成し遂げ、利長から褒美を貰っている。
 利長は慶長3年(1598)に従三位権中納言に叙任されていたが、翌年には辞しているので、この同14年当時は中納言ではない。しかし家康は利長の通称「羽柴肥前守」とはせずに、「越中中納言殿」宛にしている点も注目すべきである。






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日