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高岡城関係資料 高岡城之図


高岡城之図

 【年代】文政13年(1830)
 【法量】タテ65.5p×ヨコ38.5p
 【材質】紙本彩色
 【所蔵】金沢市立玉川図書館 近世史料館(加越能文庫)



 高岡古城図3図を1図にまとめたもの。文政13年(1830)に脇田尚方が「金谷武英子」所蔵の図を写したものと右下に記されている。それぞれ江戸前期(下段)・中期(上段)・後期(中段)に作成されたものとされ、また種類も違い、高岡古城図の基本的な図が集約された大変貴重な図面といえる。
 まず下段の図は一見して他の城図と大きく違い、特徴的なものであることがわかる。まず城域がほぼ正方形であることが認められる。また、方角が約45度ずれている点、明き丸と三の丸の間は「カラホリ(=空堀)」で区切られている点、そして搦手口が三の丸ではなく明き丸にあることなどは現状の高岡城址とも大きく異なる点といえる。
 しかし、だからと言って一笑に付してお蔵入りさせる訳にはいかない。それは「此分有澤平永貞先師作縄図」とあるからである。

 ここで有沢永貞(1638-1715)の略歴を紹介しよう。
 永貞は加賀藩初期を代表する兵学者である。本図のような絵図も多く残した。
 孫作俊澄の子。初め俊貞といい通称九八郎、采女右衛門、字は天淵・高臥亭と号した。門人らは梧井庵先生と呼び親しんだ。
 延宝元年(1673)大小将として召し出され、同2年(1674)新知200石を給せられ、同5年(1677)父の遺知300石を相続した。表御納戸奉行、細工奉行、世子付足軽などを歴任した。
 永貞は初め伯父の関屋政春に武田流(甲州流)軍法並びに儒学を、その後山鹿素行、佐々木秀景について学んだ。また町見術(規矩術ともいわれる測量術)の必要性を感じて、もと江戸の書店主で越中の藤井半知(図翁遠近道印)に学んだ。その知識を生かして貞享のころに金沢〜江戸間の地理を記した『北道里図』を著している。
 著書には『有沢日記』『有沢私考』『加陽備定』『甲陽軍鑑註解』など多数残されている。
 永貞及び子の武貞、致貞ともに兵学をもって知られるが、世にこれを「三貞」といい、甲州流兵法を加賀藩では有沢流と称し、代々伝えられた。

 とある…。有沢永貞は加賀藩初期兵学の権威なのである。これをどのように考えたらいいのだろうか。是非共諸賢の御教示を賜りたい。
 鍛冶丸には「此丸南北ハ此カツカウ(格好)ニ長ク東西ハ却テセバシ(狭し)」とある。絵図制作において、このような言い訳がましいことを記すであろうか。また本丸には「百間余四方ト云々」とあり、また図外には「回り田皆深泥堀出来ノ後浅クナリケルト云々」と記されている。学者が、しかも当時の最新科学技術ともいえる測量術を学んだ大学者が「…云々(うんぬん)」と記すであろうか。大いに疑問である。最低でも自らが縄を張っていないことだけは確実であろう。
 むしろ、この「高岡城之図」は時代の違う3つの絵図を編集したものなので、永貞自身ではなく、永貞の原図を写した何者かが記したという可能性をも大いに考えるべきであろう。

 次に上段図を見てみよう。
 この図外には「小川八左衛門源安村原図」とある。小川は宝暦14年(1764)3月から安永9年(1780)8月6日までの長期にわたり高岡町奉行を務めた人物である。『越中国高岡町図之弁』などを著し、また高岡川原町周辺の四十物(あいもの。塩で処理した魚・干魚の総称)商人達の立場に立って裁決を下したりするなど、高岡のために色々尽した名奉行である。“遠山の金さん”ならぬ、いわば高岡版“小川の八っさん”であろう。
 この図の特徴は何より土塁が細かくに書き込まれていることであろう。各曲輪の周囲や天守台などである。特に本丸虎口(出入口)に見られる「内桝形」といわれる高度な防御施設や二の丸−鍛冶丸の土橋西側の鍛冶丸の中央まで伸びた土塁(枡形)は注目に値するものである。しかも、本丸・二の丸・鍛冶丸については土塁(土居)の高さと「ナラシ(土塁上の平面にならした幅)」の間数も記入されている。
 また、大手口から鍛冶丸入り口、そして本丸−二の丸間の土橋は坂であった記号も記されており、高岡城跡をより立体的に窺い知ることのできる、大変貴重な史料である。

 最後の中段図は高岡市立中央図書館所蔵の「高岡古城図」(No.11)のページに述べたので、参照して頂きたい。幕末の高岡町奉行・小堀金五右衛門政布の提出したものである。
 本図は主に城内の建築物や曲輪・堀などの細かな間数が記されており、『高岡史料』下巻に「最も精確なりと認む」とあるように、高岡城跡図といえば本図が最も信頼され、用いられてきた。

 この図の図外に「此分先年高岡町奉行/小堀金五右衛門政布上之図(太字は筆者)」とある。そして、右下の年代に目を転ずると「文政十三庚寅歳初秋旬有八日」とある。ここで一つ疑問が出てくる。小堀奉行の高岡町奉行の任期は天保13年(1842)から嘉永6年(1853)までなのである。文政13年(1830)に編集したとするならば「先年」のはずはないことになる。
 ここで一つの推論を提示したい。それは、この中段図は小堀奉行が「上之図(あぐるのずorこれをあぐず)」したものである。即ち、小堀奉行が作成したのではなく、以前からあったものを単に「提出」したに過ぎないとは考えられないであろうかというものである。そうなれば小堀が江戸後期の奉行だからといってこの絵図も江戸後期のものであることにはならず、自然にそれ以前に制作されていたものということになり、この年代的矛盾は解決され得るのである。
 その根拠として、この「高岡城之図」の3図が1図になった形態は、享和元年(1801)の富田景周著『瑞龍閣記』の附属図(No.9「高岡城并瑞龍寺図」)に見られるからである(この図は高岡城3図と瑞龍寺図が1図になっている)。『高岡史料』(昭和47年復刻版)下巻附属図「高岡御旅屋の図」の解説に「(富田)景周高岡城の図に関し記して曰く『有澤永貞小川安村ノ図其外ニモ密図アリ景周曾テ享和辛酉之春是等ヲ一集シテ縮図とナシ瑞龍閣記ニ併附ス』とある。この「等」こそがこの「小堀提出図」とするなら、富田景周が享和元年にこの3種の高岡城図を「一集」してこの「高岡城之図」の形態を作ったとは考えられないであろうか。そして、「高岡城之図」の右下には「此図并高岡町割之図御寺御舘之図則/都合四図金谷武英子蔵図ヲ以テ因写之」とある。前述のように推定するならば、「此図」が享和元年(1801)に富田景周が編集した図と考えられ、それから30年後の文政13年(1830)に写されたとしても年代的矛盾がないのである。
 従って、この「高岡城之図」と全く同系の3種の高岡城図である「高岡御城三城絵図」(No.10)が佐藤元知により天保4年(1833)に写されたとしても同じことがいえよう。






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日