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筏井竹の門自画像  イカダイ タケノカド ジガゾウ

筏井竹の門自画像

縦36.5cm × 横34.2cm
大正12、3年(1923,24)頃
紙本墨書

【読み下し】(「/」は改行。旧字は新字に直した)
御令閨の御病気近々御快気との/事何よりの御事と喜び候/恵まれし壷めでたく存候/小生ハ去る十九日突然/中風にて/倒れ/申候/併し/幸ひ/にして/半身不随/ともならず/養生致居り候これからが/また無理をすると何時脳溢血にて倒れるやも知れぬ/危険有之候こん/な逆浪(竟?)に候呵々 [自画像] 竹の門生(印)
 八月二十七日 北朗様


 高岡で俳句や俳画をよくした筏井竹の門の晩年の書簡。
 俳人・陶芸家の内島北朗(1893-1978)に宛てられている。高岡出身の北朗は会社の先輩の竹の門に勧められて俳句をはじめ、層雲派に属した。
 北朗夫人の快気のお祝いとともに、自分の病状を伝えている。病に苦しむ竹の門の苦悶の表情がよく描かれている。




竹の門肖像(明治42年)
竹の門肖像(明治42年)
【筏井竹の門略歴】明治4年(1871)〜大正14年(1925)

 俳人。俳画もよくし、数多くの書画を遺し、郷土の近代俳句の発展に貢献した。
 明治4年10月16日、金沢で旧加賀藩士の末子として生まれる。本名は向田(むくた)虎次郎。号は竹の門のほか、四石、此君、雪の村人、松杉窟など多いが、竹の門を最も好み用いた。
 金沢の野町小学校卒業後、紺屋へ奉公に出され、染物の下弟子として描画の手ほどきを受ける。のちに地方紙「北陸新報社」の文撰工となる。
 明治25年(1892)、姉婿の弁護士を頼り高岡へ移住し、その事務員となる。一方、日本派俳句を提唱した正岡子規に共鳴し、新聞「日本」の俳句欄に熱心に投句した。
 同30年(1897)高岡を訪れた子規の高弟・河東碧梧桐に触発され、同年寺野守水老、同竹湍、山口花笠らと共に日本派俳句会「越友会」を結成。これ以降、高岡に近代俳句の火が燃え上がった。
 同年8月、綿糸業の北一合資会社創立とともに、庶務兼計算係として入社。この年、高岡の中心部、木舟町の筏井太物(綿糸)商店の長女と結婚、入婿。筏井姓となる。
 竹の門の俳句熱はいよいよ高まり、同35年頃にできた地方紙「高岡新報」の日曜文壇コーナーへ投句し常連となる。同41年頃から俳壇選者になっている。
 同35年に子規を失って後の近代俳句界は急激な変化の時代を迎えており、竹の門も碧梧桐の季題や定型にこだわらない“新傾向俳句運動”に共鳴し、新時代の句作を始めた。 大正10年(1921)には『竹の門句集』が出版されている
 また、後年竹の門は俳画に熱中する。それは明治44年(1911)に日本画家・富田渓仙(1879〜1936)の高岡訪問がきっかけとなる。博多出身の渓仙は、文展・院展などで活躍した南画の大家。のち15年間画道三昧の生活となり、独特の境地を切り拓いた。作品の多くは野草への愛着によって描かれている。
 大正14年(1925)1月初旬から病床に臥し、同年3月29日、53年の生涯を閉じた。翌年、その死を悼む人々により高岡古城公園内に句碑が建立された。のち息子で歌人の嘉一(1899〜1971)の歌碑がその横に寄り添うように建てられた。

竹の門・嘉一父子石碑(高岡古城公園内)筏井竹の門・嘉一父子石碑(高岡古城公園内小竹藪内)
左が竹の門句碑(宴つづく思ひの朝寝さへづれり)
右が嘉一歌碑(ゆめさめてさめたるゆめは恋はねども 春荒寥とわがいのちあり)





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原本作成日:2002年7月1日;更新日:2015年3月28日