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高岡市街鳥瞰図  タカオカシガイ チョウカンズ

高岡市街鳥瞰図 高岡市街鳥瞰図(部分)

縦71.5cm × 横327.0cm
昭和7年(1932)
絹本著色
吉田初三郎(1884-1955)筆

 「大正の広重」と称された吉田初三郎(よしだはつさぶろう)が描いた鳥瞰図。
 鳥瞰図とは地表を平面的にとらえる地図に対して、鳥が高い空から地上を眺めたら、こう見えるだろうという景色を想像して、ある一点から俯瞰して描かれたものである。
 従来の鳥瞰図を変革した「初三郎式鳥瞰図」といわれたその特徴は、中央部を細密に描く一方、画面両端を魚眼レンズのように屈折させ、実際には見えないものまでも描き込むというもので、カラフルな色彩と分かりやすさで、広く人々に支持された。
 本図は桜咲く高岡古城公園を中心に高岡の市街地を中央画面に置き、右側は富山湾に沿って伏木・新湊・富山・宇奈月、立山、日本アルプスへと展開する。伏木港からは、北海道はじめ樺太(サハリン)、朝鮮半島へと汽船が就航し、昭和初期の大陸への関心の強さが読みとれる。また港の左岸には、臨海工場群が見え、この工場への電力供給源の発電所が、画面左に大きく描かれている。
 高岡駅の南側には高岡の開祖・前田利長公墓所と、その菩提を弔うための国宝・瑞龍寺とを結ぶ八丁道を描き、市内中心部には大仏、新聞社、学校、市場などを描いている。
 富山県西部の中核都市としての姿が直感的・体感的に理解できるパノラマで展開されている。




吉田初三郎肖像(昭和25年春)
吉田初三郎肖像(昭和25年春)
【吉田初三郎略歴】 明治17年(1884)〜昭和30年(1955)

 鳥瞰図作家。
 京都市中京区(祇園周辺)で生まれたといわれる。幼少の頃から絵が好きで画家を志したものの、少年期には友禅図案絵師に奉公し、青年期の初めは京都三越の友禅図案部で働いている。その後単身で東京に出て、洋画研究所の白馬会で学び、兵役後再び帰郷してからは、近代洋画黎明期の画家で関西美術院長も務めた鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう。1874〜1941)に入門した。
 当時、鹿子木は世紀末のパリで隆盛を極めたアール・ヌーヴォー(新芸術)を実体験し帰国直後であり、ヨーロッパの商業美術に刺激された彼は、初三郎には洋画家としての素質には欠けるが日本画風の風俗画に才ありと見抜き、商業美術の創作への方向転換を示唆した。初めは師の言葉に落胆していたが、処女作「京阪電車御案内」(大正2年)が皇太子殿下(昭和天皇)の眼にとまったことをきっかけに「現代の名所図絵を残して、後世に名所と交通の状態を伝えたなら、人文史の材料にもなるし、当代特有の名所図絵という一種の芸術を示すこともできる。よし日本中の名所図絵、更に世界中の名所図絵を描き上げて不朽の仕事にしてやろう」と考え、全国津々浦々をスケッチして回り、朝鮮半島、中国東北部、台湾、樺太(サハリン)までも足を伸ばし、多種多彩な鳥瞰図や絵図を描き上げた。
 初三郎は門弟を多数抱えて、共同作業による工房制を取り入れたので、多くの注文に対し、同時に、かつ早急に対応することができた。また、出版部門も設け、その幅広い活動は、商業美術の先駆けとなった。
 十数年を要した「日本全国名所図絵」は300種類にものぼり、絵葉書、挿し絵、ポスターなども含め多数の作品に用いられた。その数は万を越えるともいわれる。大正時代、名所図絵や案内図を描く人は他にもいたが、彼の作品は自然を巧みにとらえ、見て楽しく分かりやすいといった点で傑出していた。大正後期から昭和前期の旅行ブームの波に乗って、鉄道、船舶などの運輸機関、各地の観光協会や公共団体からの注文も殺到し、初三郎の画業を隆盛に導いた。
 戦時色が濃くなってくると、初三郎は軍部の要請で従軍画家として大陸へ赴き、戦略用鳥瞰図を制作。また鳥瞰図は検閲が厳しくなり、影を潜めていく。
 戦後は広島で代表作の一つといえる「原爆地広島八連図」を描くが、勇壮で華麗な筆致は失われ、どこか弱々しく、往時の隆盛は戻らなかった。
 昭和30年(1955)8月16日、京都市中京区四条の寓居で永眠。享年71歳。





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原本作成日:2003年3月25日;更新日:2015年3月28日