和 暦 | 西暦 | 年齢 | 主 な 出 来 事 |
永禄5年 | 1562 | 1 | 1月12日、尾張国愛知郡荒子城(名古屋市中川区)に前田利家の嫡男として誕生(母はまつ、後の芳春院)。 幼名犬千代、後に孫四郎、初名は利勝(後に利長と改める)。 |
天正3年 | 1575 | 14 | 9月、父利家、府中三人衆として越前府中(越前市)に転封され、利長も従う。 |
4年 | 1576 | 15 | 織田信長、近江国安土(滋賀県安土町)に築城し移る。利長もこれに従い安土に居住。 |
6年 | 1578 | 17 | 実弟・利政(利家二男)生まれる。 |
7年 | 1579 | 18 | 天然痘を患う。 |
9年 | 1581 | 20 | 8月、父の能登転封に伴い信長より父の旧領越前府中に封ぜられ、3万3千石余を与えられる。
9月、信長の四女(五女説あり)・永(8歳/後の玉泉院)と婚約。
12月、永と結婚。 |
10年 | 1582 | 21 | 夫婦で上洛途中の6月2日、近江勢田で本能寺の変を聞く。夫人を尾張荒子に避難させ、信長の婿同士の蒲生賦秀(後の氏郷)らと共に信長の夫人達を日野城(中野城とも。滋賀県日野町)にかくまい、信長二男の信雄を奉じて仇討を試みるが果たせず(異説あり)。 |
11年 | 1583 | 22 | 2月、柴田勝家軍の先鋒となり近江柳ヶ瀬に出陣し、羽柴(後に豊臣)秀吉軍と戦う。
4月、賤ヶ岳の戦い。勝家敗走。父と共に越前府中に敗走し秀吉に降る。
秀吉より松任に転封され4万石を与えられる(利家は能登国及び北加賀二郡を与えられ尾山(後の金沢)に居城)。 |
12年 | 1584 | 23 | 9月、能登末森城(押水町)の戦い(少数の兵で佐々成政を破る)。 |
13年 | 1585 | 24 | 4月、父に従い加賀鳥越城(石川県白山市)を攻める。
8月、秀吉による越中の成政征伐(戦後、成政旧領の越中三郡(砺波・射水・婦負)は利家に与えられるか)。
閏8月11日、父利家、国泰寺の方丈を守山(城?)に徴発。25日、守山城下町郊外(小矢部川渡船場)の二上渡守方を安堵。この月、古国府(高岡市)の勝興寺に制札を与える。
9月11日、秀吉から羽柴姓を賜る。正式に越中三郡を拝領し、守山城主となる。
11月、従五位下肥前守に叙任される。この頃より「羽柴肥前守(=はひ)」を名乗るか。 |
14年 | 1586 | 25 | 6月、伊勢大神宮に越中の田120俵を寄進。従四位下侍従に叙任される。
8月、越中砺波郡篠河村(高岡市)の市日を定め、禁令を布く。
9月、越中埴生八幡宮(小矢部市)に田60俵を寄進し、禁制を下す。
12月、豊臣姓を賜る。 |
15年 | 1587 | 26 | 秀吉の九州(島津・秋月)征伐に従軍。4月1日、秋月種長の家臣・熊井越中の籠もる豊前巌石城(福岡県添田町)を蒲生氏郷と共に攻め1日で攻略する。 |
16年 | 1588 | 27 | 2月、千利休に家臣・中川光重(隠居後は宗半と号す)と共に茶会に招かれる。
4月、聚楽第行幸に父と共に陪席。
7月、大仏殿(方広寺)普請。前田父子1万人を負担。
10月、勝興寺に寺田100俵を寄進。
11月、領内の刀狩りを大仏殿御用として行なう。 |
17年 | 1589 | 28 | この頃、利勝を利長と改名する。 |
18年 | 1590 | 29 | 2月、前田親子、秀吉の小田原(北条)征伐のため金沢より1万8千余を率いて出陣(利家は上杉・真田らが属する北国勢の総大将)。北国勢は4月20日、上野松井田城、6月14日、武蔵鉢形城、同月23日、武蔵八王子城を攻略。
7月5日、相模小田原城の北条氏政・氏直親子が降伏。
9月、秀吉、天下統一を果たす。 |
文禄元年 | 1592 | 31 | 1月、聚楽第行幸に陪席。
春、文禄の役。利家、肥前名護屋(佐賀県唐津市)に在陣(利長は北陸に留守し、軍需品の調達などにあたる)。
尾山城を修築し、金沢城と改める(異説あり)。 |
2年 | 1593 | 32 | 3月、砺波郡今石動(小矢部市)の永伝寺に米100俵を寄進。
4月、越中新川郡瀬戸村(立山町)陶工彦右衛門に陶器を製作させ、越中瀬戸焼を創始する(異説あり)。
8月、越中砺波郡の十禅寺社〔高岡市和田の荊波(うばら)神社)〕に祈祷所を命じ、諸役免除を認める。
9月、実弟・利政能21万石を秀吉から与えられる。
閏9月、左近衛少将に任ぜられ、肥前守を兼ねる。
10月、自宅で茶会を開き、徳川家康を招く。
11月、異母弟・利常(幼名・猿千代、のち犬千代。初名・利光。利家4男/以下「利常」と表記)生まれる(越中守山城(高岡市)の城代・前田長種と姉・幸夫妻に養育される)。 |
3年 | 1594 | 33 | 10月、父と共に宇治川の堤防を築く。
11月、井波大工10人に米1俵ずつを扶持する。 |
4年 | 1595 | 34 | 9月、左近衛中将に任ぜられる。 |
慶長元年 | 1596 | 35 | 3月、家康、利長邸を訪問。
利家、一族を挙げて白山本宮(白山比盗_社,白山市)の社殿を再興する。 |
2年 | 1597 | 36 | 参議に任ぜられる。
10月、富山城に移り、大修築する。 |
3年 | 1598 | 37 | 4月20日、利家より家督を譲り受け、金沢城に入城。
8月、従三位権中納言に叙任。18日、秀吉死去し、秀頼の傅(守)役となる。 |
4年 | 1599 | 38 | 3月、利家と入れ替わり大老に就任。
閏3月3日、利家死去(享年63)。大坂城に留まり秀頼を補佐。
8月、徳川家康の勧めにより、金沢へ帰国。
9月初旬、伏見の家康は大軍を率いて大坂に下向し、「天下の御仕置」を定める。下旬、家康、大坂城に入城。諸大名は残らず家康の許に参上。しかし、家康は利長には上洛無用と通告(関係悪化)。27日、越後春日山城主・堀秀治に家康が越前に兵を配置し、上洛路を封鎖しているが、何かこの利長を疑っているのか、どうゆう事情があるのか、使者を送って照会中である。家康に対して何か思うところはさらさらないと書状(徳川美術館蔵)を送る。28日、家臣に対し櫓の構築や鉄や材木、家臣の妻子について指示(高畠家文書)。
10月以降に三度重臣・横山長知らを弁明に派遣し、母・芳春院(まつ)を人質として江戸に下向させることを約す。
12月、権中納言を辞す。
冬、高山右近に金沢城内総構を造成させる。 |
5年 | 1600 | 39 | 5月、家康と講和成立。6日、上方にいた芳春院(及び横山長知と前田長種の人質)が江戸下向(解放は15年後)。永姫と利政は北陸へ帰される。
館紺屋孫二郎に紺屋頭を命じる。
6月、家康に越後津川口より会津侵入のことを約す。
7月25日、小山評定。26日、利政と共に2万5千の軍を率いて加賀松任に出陣。
8月3日、山口宗永親子の大聖寺城(加賀市)を攻略。越前金津まで進軍。伏見落城と越後における一揆の蜂起を知って軍を返す。8日、浅井畷(小松市)の戦い〔小松城主・丹羽長重に襲われるが破る。浅井畷では殿(しんがり)を担った堀内景広(高岡市・二上山養老寺 金光院の住職から還俗して武士となり、長連龍に従う)らが討死〕。下旬、家康から北国切り取り次第と戦後母を金沢へ返すことを約す(後日反古)。利政出陣に応ぜず、説得を続ける。
9月8日付の家康書状で越前征討の督促を受ける。11日、再び西上(利政参陣せず)。18日、丹羽長重と和議を結ぶ〔利常と長重弟の人質交換〕)
それ以前の15日、関ヶ原の合戦(利長参戦せず)。
10月17日、近江大津で家康に拝謁。長重・利政、封を奪われる。家康より長重・利政の旧領40万石を加増される。加越能三国に119万2,700石を領有(外様最大の大名となる)。
この頃、利常と珠姫(秀忠娘、幼名・子々姫。後の天徳院)の婚約がなる。
12月、能登気多社に米200俵を寄進。 |
6年 | 1601 | 40 | 豊国社に参拝し、銭30貫を寄進。
9月、越中射水郡二上(高岡市)の渡船を新造のため、今年を限り渡者から徴税。
同月、珠姫と利常結婚。利常を跡継ぎと定める。
19ヶ条の治安法令を出す。 |
7年 | 1602 | 41 | 2月、家康と秀頼に拝謁。
7月、豊国社に参拝し、銭20貫を寄進。
10月、金沢城の天守閣が雷のため火災。
家康の重臣・本多正信の二男、政重を3万石で召抱える(同16年に再仕官。のち2万石加増)。 |
8年 | 1603 | 42 | 1月、越中氷見郡の宇波村(氷見市)に塩田を開く。
2月、家康、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く。
5月、後藤用介に命じて大判金(梅輪大判)を鋳造させる。金沢城修築。朝廷に杉原紙を献上する。 |
9年 | 1604 | 43 | 能登で10ヶ村程度の村を組織(加賀藩特有の農民支配機構「十村制」の創始)。
大野湊神社(金沢市)の神事能、利長の合戦勝利報賽能として再開。 |
10年 | 1605 | 44 | 4月8日、利長・利常、京都で家康・秀忠に謁見。利常が元服し、従四位下侍従兼筑前守に叙任され、松平姓を賜る。16日、家康、秀忠に将軍職を譲る。
6月28日、利常に家督を譲り、越中新川郡22万石を養老領として富山城に隠居する。
越中の総検地。 |
14年 | 1609 | 48 | 3月23,24日頃、富山大火、城も焼け魚津城に退避。
4月6日付で家康が築城を許可。12日、富山・守山両町の材木商を集め高岡木町を開く。越中射水郡関野(高岡市)に築城及び城下町造成工事を開始。
5月5日、「高おか」と史料上初めて見える(金沢市立玉川図書館蔵「神尾文書」一)(のち「高岳」「高丘」など)。
9月13日、未完成の高岡城に入城。高岡開町。 |
15年 | 1610 | 49 | 3月、癰(ヨウ,悪性の腫れ物/また梅毒とも)を病む。
4月、高岡城内に稲荷社を創建(のち高岡神社→高岡関野神社)。
この年、侍臣・長田牛之助兄弟らの歌舞伎者60余人を斬罪。
夫銀の制を定める。
一人娘の満(石?)姫生まれる?(母は射水郡二塚村(高岡市)大坪助左衛門の娘との伝承あり)。 |
16年 | 1611 | 50 | 2月21日、満姫(蓮成院)死去(享年は0歳と7歳の2説あり/導師は高岡の本陽寺)。
4月12日、利常、京都・二条城にて、家康が示した「三ヶ条の置目」に対する誓詞を提出。
5月、病重くなり遺言を作る。
利常、越中の埴生八幡宮・安居寺(南砺市)、加賀の敷地天神社などに利長の病気平癒を祈願する。
12月、養老領のうち10万石と家臣数十人を本藩へ返す。
砺波郡西部金屋(高岡市戸出西部金屋)の鋳物師7人を諸役免除の拝領地(高岡市金屋町)に招いたと伝わる。 |
17年 | 1612 | 51 | 4月、秀忠に銀1千枚・白布100端・蒔絵長持ち10柄を、家康に銀1千枚・染絹100匹・曝布100を贈る。 |
18年 | 1613 | 52 | 正月、3日、正月祝いに駿府の家康に太刀・馬を贈る(「駿府政事録」)。14日、秀忠に病が重いことを伝え刀等を献上する(「天寛日記」※1)。
3月、高岡御車山、高岡城にて利長が観覧したと伝わる。
春、新川郡返還問題(佐々成政旧領の後、秀吉から前田家に正式に与えられていないことが浮上→横山長知の奔走で前田家領有となる)。
冬、徳川と豊臣対立。秀頼よりの誘いを断る(使者は織田有楽斎二男・左門頼長)。
この年、広山恕陽が利長に招かれて、高岡に宝円寺を創建(「一宇」のみ。のちに瑞龍院→瑞龍寺となる)。 |
19年 | 1614 | 53 | 病ますます重くなり京都隠棲、及び高岡城破却、新川郡献上を幕府に願って許されるが果たされず、5月20日午前10時頃、高岡城において死去。
宝円寺(のち瑞龍寺)に葬り繁久寺を再興して守らせる。戒名は「瑞龍院殿聖山英賢大居士」。正二位権大納言を追贈。
6月、芳春院、人質を解かれ(代わりは利常生母・寿福院)、江戸よりの帰途に高岡に立ち寄る。
9月16日付で家康から、23日付で秀忠から、利常に対し加越能三ヶ国の領地判物が発給される(前田家初)。
10〜12月、大坂冬の陣。 |
慶長20・元和元年 | 1615 |
| 大坂夏の陣。5月、豊臣氏滅亡。
閏6月、利長1周忌を機に利常、芳春院の勧めにより高野山に五輪塔(三番碑)を建立(のち七尾市・長齢寺に利長供養塔建立。さらにのち(1646年以前)、金沢市・野田山に利長供養墓(拝墓か)造立)。13日、一国一城令により高岡城廃城。家臣団金沢(高岡町)へ引き上げる。高岡町民離散。
7月13日、元和改元。
11月20日、前田光高(4代当主)生まれる。 |
2年 | 1616 |
| 4月、家康死去(享年75)。 |
3年 | 1617 |
| 7月16日、芳春院金沢城において死去(享年71)。 |
6年 | 1620 |
| 利常、高岡町人に転出禁止令を出す。 |
9年 | 1623 |
| 2月、夫人・玉泉院死去(享年50)。 |
寛永15年 | 1638 |
| 利長25回忌のこの年以降、加賀藩重臣(本多政重、横山長知、前田直之、長 連頼、奥村栄政ら)が現在の八丁道(瑞龍寺と利長墓所を結ぶ参道)に石灯籠33基を寄進。 |
寛永16年 | 1639 |
| 利常、小松に隠居し、光高が家督相続。 |
正保元年 | 1644 |
| 以降、利常、利長の命日ごとに瑞龍院(現瑞龍寺)へ宝物の寄進を始める。 |
3年 | 1646 |
| 利常、利長33回忌にあたり高岡に墓域1万坪に及ぶ利長墓所(平成21年国史跡指定)を造営。 |
承応年間 | 1652〜54頃 |
| 利常、瑞龍院の再興(整備拡張)を開始。 |
承応3年 | 1654 |
| 利常、利長40回忌にあたり瑞龍院に300石を寄進(前田家3番目の規模)。 |
明暦2年 | 1656 |
| 瑞龍寺伽藍の主要部成る。 |
寛文3年 | 1663 |
| 5月、利長50回忌にあたり瑞龍寺が竣工(3万6千坪。平成9年に仏殿・法堂・山門が国宝指定。他総門や回廊等7棟は重文指定)。 |
正徳3年 | 1713 |
| 5月、利長100回忌法要(於 瑞龍寺)。 |
宝暦13年 | 1763 |
| 5月、利長150回忌法要(於 瑞龍寺)。 |
文化10年 | 1813 |
| 5月、利長200回忌法要(於 瑞龍寺)。 |
文久3年 | 1863 |
| 5月、利長250回忌法要(於 瑞龍寺)。 |
※年齢は数え年です。