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高岡城関係資料 前田利長書状(神尾図書之直宛)



〔翻刻(ほんこく)〕
(端裏ウワ書)「(切封)つしよ    ひ」
「F尚々はうしゆゐんヨリ/Gかたひら被下候物とも/@高おかしろぢまつり/Hいつにてもこんきに/Aの事はやくりから/I御れい申あけ候/Bめうおんゐんへ申つけ/Jよく候へく候/Cしゆぎよういたし候/D間此よしはうしゆゐん殿へ/E被申へく候/Kかしく/L五月十七日」(丸数字は読む順番。「/」は改行)

〔読み下し〕
(端裏ウワ書)「(切封)図書(神尾之直)    ひ(前田利長)」
「高岡城地祭の事、はや倶利伽羅明王院へ申し付け、執行致し候間、この由、芳春院殿へ被申べく候。尚々、芳春院より帷子下され候物ども、いつにても懇儀に御礼申し上げ候、よく候べく候。かしく。五月十七日」


 【年代】慶長14年(1609)5月17日
 【法量】
 【所蔵】前田育徳会(尊経閣文庫)



 この文書は慶長14年(1609)5月17日に利長から、側近の神尾図書に宛てて出されたものである。
 その大意は「高岡新城の地鎮祭のことは、既に倶利伽羅明王院に申し付け執行致しました旨を芳春院殿へ申し伝えよ。なお、芳春院より帷子を頂いたので、丁寧にお礼申し上げよ」というものである。
 しかしこの話には“後日談”がある(「3.古記録/13.『温故集録』」)。
 図書からこのことを聞いた芳春院が、普通地鎮祭とは沙門(=出家修行者)にさせるものではなく、陰陽師(おんみょうじ)の役目であるとして、自らの御用達の陰陽師を高岡へ派遣して、地鎮祭をやりなおさせているのである。

 この手紙にみられるように、江戸で人質になっている母・芳春院は利長へ帷子(夏に着る生絹や麻布で仕立てたひとえもの)を送ったりしており、地元との交流は寛容であったことがうかがえる。芳春院はほかに娘たちに盛んに手紙(愚痴をこぼしたりしている)を出したり、有馬温泉に湯治へ出かけることもしている。






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日