高岡城関係資料 『温故集録』【年代】明治20年(1887) 【材質】紙本墨書 【所蔵】金沢市立玉川図書館 近世史料館(森田文庫) 利長が高岡城の地鎮祭(=地祭)を沙門(=仏教僧)である“南光坊”にさせたと聞いた江戸で人質となっていた芳春院(利長生母まつ)が、地鎮祭は陰陽師(おんみょうじ)の役目であるのに、それは宜しからずとして、芳春院の江戸での御用達であった陰陽師・吉田右衛門にさせるため高岡へ派遣し、やり直させたという江戸中期の記録(ちなみに、この“南光坊”については不明である)。 高岡城の地鎮祭については「2.古文書」の「5.前田利長書状(神尾図書之直宛)」にあるように、利長は倶利伽羅明王院に地鎮祭を行なわせたことを芳春院に伝えさせている。この記録はその“後日談”といえる話である。 地鎮祭が行なわれたのは慶長14年(1609)である。隠居し、すでに加賀百万石の「大御所」となっていた従三位前権中納言・前田肥前守利長(当時満49歳)といえども、母にはかなわなかったとみえる。 しかし利長はその母に遣わされてきた陰陽師(初代)吉田右衛門を厚遇しており、度量の広さをうかがわせている。右衛門は高岡城完成後も高岡に留まり、利長の話し相手(御伽衆)となったり、金沢に屋敷を拝領したりするなど寵愛を受け、さらに祈祷や藩内の陰陽師の取り締まり役も務めていた。のちに、右衛門は上方(かみがた=京都)から息子の(2代目吉田)右衛門を呼び寄せた。そして自身は京都へ帰り亡くなった。 これらのことを加賀藩士・斎藤四郎左衛門が、2代目右衛門より常々聞き及んでいたという。斎藤は『寛文侍帳』(石川県立図書館蔵)によると、寛文元年(1661)時点では「小算用」という役職で知行は100石とある。 さらに、3代目の吉田市左衛門については、2代目の晩年の子供だったので、陰陽師としての教育を受けていないうちに、2代目が亡くなってしまったので、母を養いながら加賀藩に“武士として”仕えたという。吉田市左衛門は『寛永十九年小松侍帳』(石川県立図書館蔵)によると小松城下に住まいし、150石の知行があてがわれていたことがわかる。 現在、小説や映画、漫画などで有名となった陰陽師とは、古く律令制下では陰陽寮に属して陰陽道(古代中国の陰陽五行説に基づいて、災異・吉凶を説明しようとする方術。天文・暦数・卜筮(ぼくぜい)などを扱う)にかかわった国家公務員であり、中・近世においては民間で加持祈祷をする者のことである。 この吉田右衛門とは何者なのかは不明だが、この吉田という姓から察するに、江戸初期の当時、幕府の庇護のもと全国の神社を支配していた、吉田兼見(カネミ.1535-1610)の一族であろうか。この兼見は京都吉田神社の神主で神祇官であり、信長・光秀・秀吉・家康と時の権力者に取り入って自らの「吉田神道」の勢力を拡張していった傑物である。また彼の残した日記『兼見卿記』は超一級の史料である。 この「斎藤四郎左衛門覚書」が掲載されている『温故集録』は大郷土史家・森田柿園(シエン.1823-1908)が明治20年(1887)に編纂したもの。前田家5代藩主綱紀が、前田氏系伝を尋ねるために古老に下問し集めた書札遺事記録を類聚したものである。 森田柿園は、加賀藩士・森田大作の子。幼名を鉄吉、のち平之佑、平次と称し、諱は常孝・良見と順次改め、号を柿園と称した。嘉永元年(1848)26才の頃より著作が見られ、嘉永4年(1851)29才の時に主家である茨木家の家譜編纂にあたるようになる。 彼の歴史家としての活躍は明治時代になってからピークを迎え、前田家御家録編輯方にも属することとなる。 明治9年(1878)に、石川県職員を辞したあと、その執筆活動は目覚しいものとなり、60〜70代には多くの著述を残し、その活動は82才にまで至っている。同41年(1908)86才をもって没するが、その生涯の編著作は郷土の歴史を研究する上で欠かせないものとなっている。 〔翻刻(ほんこく)〕 「 斎藤四郎左衛門覚書 覚 芳春院様御祈祷被仰付候 陰陽師 吉田右衛門 上方へ罷登果申由 せかれ 同 吉田右衛門 御当地ニ而六七ヶ年以前果申候 孫 吉田市左衛門 只今御当地ニ罷有候 右陰陽師吉田先右衛門義、於江戸芳春院様御祈祷就被仰付候、瑞龍院様御隠居被遊候刻、高岡御城御地祭之義、南光坊ニ被仰付候処、芳春院様被為聞召、現在之御祈祷之義ハ陰陽師之役ニ御座候、沙門ニ被仰付候ハ不可然被為思召候、吉田右衛門を御国江被遣候間、早々罷越御地祭仕直可申旨、芳春院様以御意、高岡へ罷越御祈祷相勤、御城出来色々致拝領候由、御在国之刻右衛門義高岡ニ相詰、於御前御咄なとも申上、度々御懇之御意御座候而、金沢町屋並ニ居屋敷被下之、数年御祈祷相勤、且又他国ヨリ御当地へ罷越候陰陽師之分改之、むさと仕たるまきれものなと有之候者、当分ニ而も指置申間敷旨、吉田ニ被仰付罷有、其後上方ヨリせかれ右衛門を召寄置、其身ハ上方へ罷登果申旨、常々二代目右衛門私江物語仕候、孫市左衛門与申者之義ハ、若年之時分親年も寄申候故、家職伝不申内死去仕候付而、市左衛門義只今廿四五ニ罷成、御家中ニ奉公仕、母を育罷有申候、以上 七月八日 斎藤四郎左衛門 」 〔読み下し〕 「 斎藤四郎左衛門覚え書き 覚え 芳春院様ご祈祷仰せつけられ候(そうろう) 陰陽師 吉田右衛門 上方へまかり登り果て(=死去)申す由(よし) せかれ(せがれ=伜) 同 吉田右衛門 ご当地(=金沢)にて六・七ヶ年以前果て申し候 孫 吉田市左衛門 只今ご当地にまかりあり候 右陰陽師吉田先の右衛門(の)義、江戸において芳春院様ご祈祷について仰せ付けられ候、瑞龍院様ご隠居遊ばされ候みぎり、高岡お城おん地祭(じまつり=地鎮祭)の義、南光坊に仰せ付けられ候ところ、芳春院様聞こし召させられ、現在のご祈祷の義は陰陽師の役にござ候、沙門(しゃもん=出家修行者、ここでは僧侶)に仰せ付けられ候は、しかるべからずおぼし召させられ候、吉田右衛門をお国(=高岡)へ遣わされ候あいだ、早々まかりこし、おん地祭し直し申すべく旨、芳春院様御意(ぎょい)を以って、高岡へまかりこしご祈祷あい勤め、お城出来(しゅったい=完成)色々拝領いたし候よし、ご在国のみぎり右衛門義高岡にあい詰め、ご前においてお咄(はなし)なども申し上げ、度々ご懇(ねんご)ろ御意ござ候て、金沢町屋並びに居(い)屋敷これを下され、数年ご祈祷あい勤め、かつまた他国よりご当地へまかりこし候陰陽師の分、これを改め、むさと(=訳も無く、むやみに)仕(つかえ)たる紛れ者などこれあり候は、当分にても差し置き(=放っておく)申すまじき旨、吉田に仰せつけられまかりあり、その後上方より伜右衛門を召し寄せおき、その身は上方へまかり登り果て申す旨、常々二代目右衛門私(=斎藤四郎左衛門)へ物語りつかまつり候、孫・市左衛門と申す者の義は、若年の時分、親、年も寄り申し候ゆえ、家職伝え申さざる内、死去つかまつり候(に)ついて、市左衛門義、只今二十四・五(歳に)まかりなり、ご家中(=加賀藩)に奉公つかまつり、母を育(はぐくみ)まかりあり申し候、以上 七月八日 斎藤四郎左衛門 」 ※『金沢市図書館叢書(四) 温故集録』(金沢市立玉川図書館近世史料館,平成15年3月発行)を参考にいたしました。 このホームページ内の内容、画像の二次利用は固くお断りします。 原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日 |