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高岡城関係資料 高岡御城景台之絵図


高岡御城景台之絵図

 【年代】
 【法量】タテ46.5p×ヨコ81.8p
 【材質】紙本淡彩
 【所蔵】高岡市立中央図書館(関忠五郎氏旧蔵)



 城絵図資料No.12の「高岡御城景台之絵図(写)」の原本と思われる。この度の調査で高岡市立中央図書館から新発見された。
 右上に「慶長十七壬子年八月写之」とあり、前田利長が慶長14年(1609)9月に高岡へ入城して3年後に写されたとあるがその時代のものかは不明。年代的には高岡城絵図中で最古のものである。
 高岡城は元和元年(1615)の「一国一城の令」により廃城となったといわれるが、本図は利長逝去(慶長19年=1614)以前の高岡城が“生きていた”時代の様子が分かる大変貴重な史料である。
 「但図式百間以曲尺ヲ六寸ニ縮」とあり、100間(約182m)を6寸(約18p)に縮めたということなので、縮尺は1000分の1と分かる。
 土塁や建物は描かず、各曲輪にはそれぞれ東西と南北の間数(長さ)と歩数(面積)と名称が記されている。名称には若干の差異があり、まず本丸を「御丸内」、鍛冶丸(当館所在地)を「□(土ヘンに星)御門/鍛屋」、二の丸(図書館所在地)を「ニノ御丸/今枝民部」、三の丸(体育館所在地)を「越繰輪」としている。そして大手口を「御表口」、搦手口を「御大手崎」、本丸入口の門を「大御門」と表記している。
 昭和7年に写した際の注記にもある通り、所々に虫食いや消された文字があり、また退色が甚だしく保存状態は良くはなかったと見える(軸装してあるのがせめてもの救いといえる)。写しの方には他の史料なども援用して、朱字にて加筆訂正なされている。

 「高岡城に天守閣はあったのか」どうかは高岡城にまつわる最大の謎の一つといえるが、本図はその謎に一つの説を提供している。本図の最も注目される点は、天守閣や角櫓があった(もしくは建設予定地)とされる本丸北隅に、「御材木御蔵/弐拾間 五拾間 歩〆千歩」と記されていることである。利長入城後3年の時点では天守閣はおろか、角櫓も存在しておらず、材木蔵があったというのである。
 増山安太郎著『高岡古城志』には、おそらくこの「諸事留帳長綴」と思われる、関氏所蔵の『旧記』に「(利長)御在城之刻、北へ成出申所ニ御材木御蔵ニ御座候由」と記されていることを挙げて、“天守閣非存在説”を補強している。しかし同書には『伊東氏旧記』の「御本丸天守台、御角御櫓跡ヨリ伏木湊江入申候船之帆形相見へ申由之事」の一文を載せ“天守閣存在説”の可能性も示唆しており、真相は未だ闇の中である。
 また、御竹藪の北隅には井戸のマーク(#)と「御手洗」の文字もみえる。






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日