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高岡城関係資料 高岡御城景台之絵図(写)


高岡御城景台之絵図(写)

 【年代】昭和7年(1932)8月28日写〔原図・慶長17年(1612)8月写と記載〕
 【法量】タテ47.4p×ヨコ79.9p
 【材質】紙本淡彩
 【所蔵】高岡市(原図・高岡市立中央図書館、関忠五郎氏旧蔵)



 右上に「慶長十七壬子年八月写之」とあり、前田利長が慶長14年(1609)9月に高岡へ入城して3年後に写された絵図であると記される。本図はそれ、もしくはその写し(そのまた写し?)を昭和7年に写したものであるとの記載がある。
 原本は未確認であったが、この度の調査で高岡市立中央図書館より発見された。年代的には高岡城絵図中で最古のものである。
 高岡城は元和元年(1615)の「一国一城の令」により廃城となったといわれるが、本図は利長逝去(慶長19年=1614)以前の高岡城が“生きていた”時代の様子が分かる大変貴重な史料である。
 表題にある「景台」とは、正しくは「瓊台」と表記し「立派な御殿」という意味という。
 続いて「但図式百間以曲尺ヲ六寸ニ縮」とあり、100間(約182m)を6寸(約18p)に縮めたということなので、縮尺は1000分の1と分かる。
 土塁や建物は描かず、各曲輪にはそれぞれ東西と南北の間数(長さ)と歩数(面積)と名称が記されている。名称には若干の差異があり、まず本丸を「御丸内」、鍛冶丸(当館所在地)を「□(土ヘンに星)御門/鍛屋」、二の丸(図書館所在地)を「二ノ御丸」、三の丸(体育館所在地)を「越繰輪/今枝民部」としている。そして大手口を「御表口」、搦手口を「御大手崎」、本丸入口の門を「大御門」と表記している。
 本図では原本では破れていたりして、読めない部分が朱で加筆されている。その例として、現在、当博物館の建つ鍛冶丸(枡形とも)の「□(土ヘンに星)御門」の「□」の部分を「埋」としている。「埋(うずみ,うずめ)門」とは、門が両脇の石垣や土塁などに埋もれたようになっている門で、戦では実際に両脇の石垣や土塁を崩して敵を防ぐことも想定されたものであるという。しかし、この埋門が実際に鍛冶丸にどのように設置されていたのかは不明である。

 「高岡城に天守閣はあったのか」どうかは高岡城にまつわる最大の謎の一つといえるが、本図はその謎に一つの説を提供している。本図の最も注目される点は、天守閣や角櫓があった(もしくは建設予定地)とされる本丸北隅に、「御材木御蔵/弐拾間 五拾間 歩〆千歩」と記されていることである。利長入城後3年の時点では天守閣はおろか、角櫓も存在しておらず、材木蔵があったというのである。
 右下の細かい書込みにより、原図は関忠五郎氏の所蔵であること、同氏宅にはこの他に城址の事を細かく記した「諸事留帳長綴」もあることなどが分かる。
 増山安太郎著『高岡古城志』には、おそらくこの「諸事留帳長綴」と思われる、関氏所蔵の『旧記』に「(利長)御在城之刻、北へ成出申所ニ御材木御蔵ニ御座候由」と記されていることを挙げて、“天守閣非存在説”を補強している。しかし同書には『伊東氏旧記』の「御本丸天守台、御角御櫓跡ヨリ伏木湊江入申候船之帆形相見へ申由之事」の一文を載せ“天守閣存在説”の可能性も示唆しており、真相は未だ闇の中である。

 本図の様々な書き込みは、上述の『関氏旧記』や『射水郡分記録等抜書』(古記録No.14)と同じであり、それぞれが同じ原点から作成されたものと考えられる。
 また、御竹藪の北隅には井戸のマーク(#)と「御手洗」の文字もみえる。






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日