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高岡城関係資料 『射水郡分記録等抜書』



『射水郡分記録等抜書』 『射水郡分記録等抜書』表紙

 【年代】
 【法量】タテ12.0p×ヨコ18.0p
 【材質】紙本墨書
 【所蔵】塚本幸史氏



 越中国射水郡(富山県の北西部)についての様々な記録。中川庄右衛門等2人の控え。
 高岡城や町立の由来をはじめ、武家屋敷の配置、繁久寺御火燈衆掃除人口上の覚、産土神である熊野社・稲荷社・神明社のことなどが記録されている。
 高岡城に関する部分だけでも、築城に至る経緯や、各曲輪の長さと面積など詳細な記述がみられる大変貴重な史料である。
 本丸の天守台にあたる部分には「御材木御蔵」とあるなど、城絵図のNo.13の「高岡御城景台之絵図」の書き込みと多くの共通点が見られ、その絵図の典拠である「関氏旧記(古記録No.11)」との関連が注目される。おそらくどちらも同じ史料を元に作成されているのであろう。
 また高山右近だけではなく加賀藩初期の重臣・山崎閑斎(長徳)も縄張をしたという記録は管見の限り本史料のみに見られる。
 塚本家は射水郡の二上組の十村(とむら)南家の手代を務め、明治期は射水郡役所に勤めていた家で、貴重な古文書が現在でも多く所蔵されている。


※【山崎閑斎(長徳)略歴】
  天文21年(1552)生〜元和6年(1620)没

 名は小七郎、庄兵衛、長鏡、長徳。長門守。閑斎は隠居後の号。
 父は朝倉家家臣で朝倉家滅亡の時に戦死した山崎吉延。長徳も朝倉家に仕えるが、朝倉家滅亡後は明智光秀に仕え700石を与えられた。本能寺の変では二条御所を攻撃し、山崎の戦いにも参加した。光秀が秀吉に討たれると、柴田勝家の家臣・佐久間安政(安次とも)に仕え旗奉行となる。賤ケ岳の戦いで中川清秀攻撃や、その後の退却で殿を務めるなど活躍をしたが、柴田軍が敗北したため、前田利長の家臣となった。
 その後、末森の戦い・九州征伐・小田原征伐に従軍し活躍した。北陸における関ヶ原の前哨戦である大聖寺城攻めでは、彼の家臣が山口宗弘の子・修弘を討ち取るなど功があり、1万5千石の領主となった。慶長16年(1611)に隠居し閑斎と号したが、大坂の陣にも従軍している歴戦の武将である。






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原本作成日:2003年5月21日;更新日:2015年3月28日