常設展「郷土の暮らしと文化」‐高岡の歴史・産業‐江戸時代のはじめに前田利長により開かれた町・・・高岡。 常設展では、豊かな歴史と銅器・漆器などの伝統産業を育んできた、魅力あふれる郷土・高岡を「歴史」「伝統産業」の2つのテーマを設けて紹介しています。 ■高岡の歴史○近世の高岡前田利長公銅像(高岡古城公園本丸)![]() ・城下町から商工の町へ 高岡の町は慶長14年(1609)、加賀前田家二代・前田利長(1562-1614)によって開かれました。同10年(1605)に富山に隠居した利長でしたが、火災に遭い、それまで“関野ヶ原”と呼ばれていた荒地に築城し、城下町を開きました。『詩経』の一節「鳳凰鳴矣于彼高岡(ほうおうなけりかのたかきおかに)」にちなんで“高岡”と名付けられました。 高岡城の縄張り(設計)は当時加賀藩に身を寄せていた元キリシタン大名で築城の名手・高山右近が行ったといわれています。しかし、近年の研究では右近の縄張説は否定的であり、利長自らが積極的に指導した可能性が指摘されています。築城及び城下町造成に関する利長の書状が約60通(右近の名は無い)も残っており、利長自らが積極的に指示したことが分かっています。 そして平城とはいえ、三方が河岸段丘(高岡台地)と広い沼田に囲まれる要害に築かれ、本丸以外全ての郭が「馬出」という強固な防衛の工夫がなされている難攻不落の壮大な城でした。 利長は高岡に各地から商人や職人を呼び集め特権を与えるなど、城下の発展に尽くしましたが、5年後に亡くなります。そしてその翌年、慶長20年(1615)の「一国一城の令」により高岡城は廃城となり、城下は急速に衰退しました。しかし利長の異母弟であった三代藩主利常は、利長の遺志を継いで、手厚い保護のもとに高岡を商工の町へと転換し発展させました。 ・高岡の町々 創町期には草分けの町人に無償支給された無税の「本町(役町とも)」が築かれ、江戸中期には町人が藩より借り受けた「地子町」がひろまり、やがて隣接村地を借り受けた請け地に造られた「散り町」も加わります。 開町当初の戸数と人口は、武家・町人合わせて1,200戸5,000人前後と考えられていますが、元禄12年(1699)には2,628戸13,085人、文久3年(1863)は4,698戸20,000人以上であったと考えられています(『高岡市史』中巻による)。 また町の数には諸説があり、時代により増えていきましたが、『高府安政録』(1859年、川上三六著)によると一番町・守山町・木舟町などの「本町」は29ヶ町、一番新町・片原横町・大工町などの「地子町」は19ヶ町、母衣町・縄手下町・宮脇町などの「散り町」は14ヶ町あり、合計62ヶ町(56ヶ町説あり)あるとしています。 ・高岡の商工業 主要官道が通る高岡は、船着場のある木町や「山町(やまちょう)」といわれる中心街などで、米・綿・麻・塩などがおびただしく動く、物流の拠点でした。町民の生活必需品を供給するため、小売業も繁盛しましたが、高岡商人の根幹は加越能三国全域の商品の流通を担当する問屋業でした。やがて高岡は「加賀百万石の台所」といわれるまでになり、今日の商都高岡のいしずえとなりました。 また高岡の主要産業となった銅器と漆器は、開町当初に利長が職人を高岡へ呼び集めたことがその発祥となり、のちに加賀藩の保護政策や町人たちの努力によって発展していきました。 高岡町役人などが発行した各種商売鑑札
![]() ・高岡の行政 高岡の行政の最高責任者は高岡町奉行(定員2名)ですが、加賀藩は町政を町奉行の監督のもとに町人の代表が町役人となり自治的に行なう方式をとりました。 町役人の最高位は「町年寄」(3名前後)で、町政全般を統括する重職です。それに次ぐものは「町算用聞」(人数不定)で「町年寄」の職務を代行しました。しかし実際に町民と接し、町政運営の円滑化にあたるものが「町肝煎」(定員3名、のち4名)です。これら3つの役職は“町方三役”と称され、家柄・人柄・能力などから選ばれ、町人からの尊敬を集めていました。 その他にも、各町から選ばれた「肝煎」や監察役の「横目肝煎」、職種ごとの肝煎をはじめ、物流の拠点であった高岡にとって重要な「布御印押人」「米肝煎」「魚問屋」「御塩問屋」「綿場主付」など、多くの町役人がいました。 ・加賀藩の農政 三代当主・前田利常による「改作法」は加賀藩農政の基本的な体制です。それは、藩士(給人)の知行地直接支配の禁止、検地の精密化、改作奉行の設置、田地割の制度化などに特色付けられますが、そのなかでも「十村(とむら)」役を頂点とした郷村支配の整備が特筆されます。 「十村」とは4、50〜100ヶ村程度の農政を担当する農民代官で、他藩では大庄屋にあたるものです。持高・家格・能力などから選ばれ、年貢の徴収、土地制度の運用、農事・人事の執行など農政の一切を取り仕切っていました。 利長が慶長9年(1604)に10ヶ村を組として、それぞれの村肝煎(他藩の庄屋や名主)から1名を頭肝煎として指揮・監督権を与えたことがその起源といわれています。 時代が下るにつれ、十村制度も整備されていき「無組御扶持人」を筆頭に「御扶持人十村」「平十村」「新田裁許」「山廻役」などの役職が設けられました。 ○近代の高岡・高岡市の誕生と市域の拡大明治4年(1871)7月、廃藩置県により高岡町を含む射水郡は金沢県に、同年11月に七尾県、翌5年に新川県、同9年には石川県へと転変を繰り返しますが、同16年に至りようやく現在の富山県が分離独立するに至りました。 明治21年(1888)に市制・町村制が発布され、翌年4月1日に藩政時代以来の62ヶ町により「高岡市」が誕生しました。高岡の他には全国でわずか30の都市しか市にならなかったことを考えると、いかに高岡が発展していたかがうかがえます。 現在の高岡市域は、上記の旧「高岡市」をはじめ、射水郡内1町12ヶ村及び砺波郡内の3町15ヶ村が基盤となっていますが、そこに至るまでには様々な紆余曲折がありました。 ※参考図「高岡市域の移り変わり」 「年表」 大成小学校の図 ![]() ・学校教育の創設 江戸時代の教育は、寺子屋や私塾で地域の先覚者などによって行なわれてきましたが、明治5年(1872)に「学制」が公布され、初等教育については、全国民が就学すべきことを定め、発布から数年間に全国で2万校以上の小学校が整備され、約40%の就学率が達成されました。 高岡市域においては、早くも同6年2月に県下初の小学校、伏木小学校(翌年西洋風に改築し、大成小学校と改名)が藤井能三(1846-1913)の尽力により開校しています。高岡中心部では同6年8月以降同7年までに5校が寺院や町奉行官舎跡に創立されていきます。そして、同9年にはこれら5校が廃止統合され洋風2階建ての「育英小学校」が創立されました。 高岡−伏木間を結ぶ鉄道の開通(明治33年)
![]() ・伏木築港と鉄道の開通 明治初期の伏木港は、水深が浅く座礁事故が絶えない危険な港でした。しかし米や北海道移民の移送など、伏木港は重要な役割を持っていました。 明治24年(1891)、藤井能三は『伏木築港論』を著して、北陸の近代化のためには陸海の交通を結びつけ、対岸地域との貿易推進が必要であり、伏木港を近代化すべきだと力説しました。 能三が口火を切ったこの主張はやがて人々を動かし、明治33年(1900)には高岡・伏木間に中越鉄道が開通し、さらに大正2年(1913)には待望の伏木築港工事が完成しました。 北陸人造肥料会社 ![]() ・伏木臨港工業地帯の発展 明治41年(1908)、北陸人造肥料会社の設立を皮切りに、明治末から大正期にかけて伏木港周辺には次々と工場が建ち並び、「伏木臨港工業地帯」を形成していきます。それは、第1次世界大戦(大正3〜7年)による軍需景気をきっかけに安価な電力、豊富な工業用水、整備された良港を求めて三井などの旧財閥系の資本が投資されたことによります。 工場地帯の形成にともない、伏木港も商業港から工業港へとその性格を大きく変えていきました。 ■高岡の伝統産業
現在、常設展では高岡銅器の歴史と、代表的な4つの鋳造技法(工程と作品)を紹介しています。 |